高嶺城(山口市)後編

 

どこでもちず~!

高嶺(こうのみね)城の

各所に設置された案内には、

詳しい説明文とともに、

必ず地図も付属し、

現在位置が赤色で示されています。

ドラえもん風に言えば、

「どこでもちず~!」って感じかな(笑)

こちらは主郭手前のものですが、

常に城の全体の地図と、

現在位置が確認出来ると

山城の散策が、安心して出来るし、

かつ楽しくなり、

案内を設置された方の

お気遣いに感謝です。

主郭南側の石垣

思った以上にあっさりと(笑)

主郭に到着。

まずは大手虎口側、

南側の石垣から散策です。

結構石垣が残っていますね!

案内。

冒頭に書いた「どこでもちず~!」が

上部に小さく描かれていますね(笑)

案内を書き出すと

次のようになります。

「主郭南側の石垣

この石垣には二つの特徴があります。

一つ目は、

二段の段築になっていることです。

これは一度に高い石垣を

築くことができなかったからです。

織田信長の安土城以前は、

高さが4mを越える石垣は

日本国内では造られてはいませんでした。

二つ目は、

積石のなかに鏡石と呼ばれる

巨石を使用していることです。

この地点は主郭に入る一番の入口、

つまり本丸の御門にあたるところです。

この石垣の築造技術は、

戦国時代の毛利氏の石垣に近いものです。

毛利氏は吉川氏を中心に

「石つき之もの共」という

石工集団を抱えていました。

「石つき之もの共」の石垣は、

積石のなかに大きな堅石、横石を

規則的に配置することが特徴でした。

また、石垣の隅に注目すると

反りがなく直線的で、

石材が小さなことがわかります。

近世になると隅の反りが大きくなり、

石材も大きくなります。

このことから、主郭南側の石垣は

毛利氏が豊臣大名化する前の、

古い段階に築いたものと考えられます。」

ここで書かれている

「鏡石」を使った石垣は、

昨年訪問した広島県北広島町の

吉川元春館や、万徳院跡にもあり、

同じ「石つき之もの共」が作っています。

石工集団と言えば、

安土城彦根城など

多くの石垣を積んだと言われる

「穴太衆(あのうしゅう)」が有名ですが、

独自の石工集団を抱えていた毛利氏は、

やはり戦国大名として突出していたことが

よくわかりますね。

西側の隅石。

真ん中。

鏡石の大きさを妻が実演(笑)

東側の隅石。

全体を動画でも撮影。

主郭(内部)

次に主郭内部へ。

虎口かな?

少し行くと視界が開けてきます。

案内を書き起こすと、

次のようになります。

「主郭からの眺望

この地に高嶺城があった当時、

主郭付近の木々は伐採され

樹木はありませんでした。

ふもとから主郭まで比高差は約290m、

ここからは

広く山口盆地を見渡すことが出来ます。

戦国時代、

大名は平地に居館を設けましたが、

戦国時代末になると

自身の支配地域を広く見渡せる

山頂に城を築き始めます。

この東向きの地点からは、

大内館跡、築山跡を

見ることができます。」

素晴らしい!

案内通り、大内館跡築山跡

しっかり見えていますね!

案内の下段を書き起こすと、

「主郭の建物

地表に点在する平たい石は

建物の礎石です。

建物は2棟あり、

この主郭いっぱいに建てられた

大きなものです。

瓦が散乱していることから、

この建物は瓦葺と分かります。

高嶺城は大内氏が築いた城ですが、

大内氏が滅んだ後には、

毛利氏が城番を置き

山口を支配する拠点としました。

毛利氏の城番は

ここに住み生活をしていました。」

このようになります。

確かに礎石がゴロゴロしていますね。

やはりツーショットは主郭で。

井戸

次に主郭下から

石垣の散策を再開。

南側から東側へ回り込むと

井戸があります。

ポンプですね!

まさか戦国時代のものでは

ないでしょうが(笑)

井戸の説明は無いのですが、

戦国時代は、

ポンプ無し(当たり前)の井戸が

あったのかも知れません。

主郭北側の石垣

井戸からさらに進むと、

北側の石垣が見えてきます。

案内を書き起こすと、

次のようになります。

「主郭北側の石垣

主郭北側の石垣は、

南側の石垣と造り方が異なります。

南側の石垣と比べて

一つずつの石材が大きく、

隅角石に巨石が使われており、

鏡石が使われていないという

違いがあります。

その原因は石工集団の違いか、

造られた時期の違いの

二つの可能性が考えられますが、

現在は造られた時期の違いと捉えており、

南側の石垣は毛利氏が

豊臣大名化するより前の

天正十九年(1591)頃、

北側の石垣は豊臣大名化した後の

慶長三~五年(1598~1600)

頃のものと考えています。

いずれも毛利氏の段階の石もので、

大内氏の段階の石垣ではありません。

また、この場所の石垣は

隅角が崩れています。

隅角は一番頑丈な場所で

自然には崩れにくいことから、

人為的に崩したことがわかります。

高嶺城には元和元年(1615)と

寛永十五年(1638)の2回、

城割(人為的に城を壊すこと)の

記録が残っています。

元和元年、

徳川幕府の一国一城令により

防長二国では

萩城を残して他は破城としました。

また寛永十四年の

島原の乱による不安から、

寛永十五年にさらに徹底的な

城割が命じられました。

現在、下に落ちているたくさんの石は、

崩された石垣の石材です。」

やはりここでも島原の乱後の

石垣破壊は行われています・・・

島原の乱では、

廃城となっていた原城に入った一揆軍が、

籠城し、幕府に徹底抗戦。

幕府側には実戦経験のある

柳川藩主、立花宗茂

剣豪、宮本武蔵も参戦、

結果、一揆軍は皆殺し、

幕府側もかなり損害を被っています・・

これに懲りた、徳川家光さんの

気持ちを考えると、

石垣の破壊も致し方なかったのかとも

思ってしまいます・・・

が、

実に勿体ない!(笑)

ゴロゴロと石垣は転がっています。

北西側から撮影。

こうやって見ると、

高嶺城の主郭石垣の規模は、

かなりのものだった事が

想像出来ますね。

展望所

主郭から下って、

車を停めさせていただいた

NHKのテレビ塔へと戻ります。

出発。

走り出して、ほどなく行くと、

展望所を発見。

車の中の妻と眺望のコラボ。

眺望のみ(笑)

そして、

眺望以上に気になったのが、

隅に立つ掲示板です。

高嶺城やアサギマダラの事など、

色々なものが張り出されていますが、

その中で特に目に入ったのが、

こちらです。

「カルデラは阿蘇だけじゃない!

山口市にも!」

地元の方の叫び声が、

聞こえて来る気がします。

阿蘇の名前を持ち出す事で、

僕が注目した事間違いなし。

これを書いた人、偉い!(笑)

 

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