柳之御所遺跡(岩手県平泉町)

 

0よりは1

平泉駅から散策をスタートしたのが13時。

そこから日没の17時30分まで、

4時間半休み無しで歩き巡った痕跡を

マップで改めて確認してみます。

右下の平泉駅からスタートし

観自在王院跡毛越寺

金鶏山の麓にある源義経公妻子の墓

中尊寺前の武蔵坊弁慶の墓

中尊寺金色堂高館義経堂

そして、

赤丸で囲んだ柳之御所遺跡と巡り、

再び平泉駅へ戻ってゴールです。

最後の2箇所は

営業時間外と知ってて訪問していますが、

どちらも「見ることは可能」な場所。

100%の観覧は出来なくとも

「何か」を体験できれば、

それは素晴らしい事。

何事も0よりは1ですからね(笑)

柳之御所遺跡(東側)

高館義経堂から平泉最後の目的地、

柳之御所遺跡へと歩きます。

案内板。

ここを真っ直ぐ行けば、

目的地は近いはず・・。

予定通りの時間外(笑)

遮蔽物がないので全体は見渡せます。

案内板はズームで撮影。

それでも文字は読めるので問題は無し!

案内を書き出すと、

「柳之御所遺跡は、

北上川のほとりに造られた

平安時代末(12世紀)の居館跡です。

発掘調査によって、

堀跡に囲まれた区域から園池跡や

たくさんの掘立柱建物跡が見つかったほか、

儀式の際に使われた土器(かわらけ)や

国産陶器、輸入陶磁器などの

奥州藤原氏の権力を示す遺物が

数多く出土しました。

それにより、

歴史書『吾妻鏡」のなかで

奥州藤原氏が政治を行った場所とされる、

「平泉館」に推定されています。」

このようになります。

ここは間違いなく藤原さん達が、

住んでいたはずです(笑)

こちらも外から撮影。

園池や中心建物の付近でしょうか?

今は遺跡のみですが、

将来は建物が復元されるそうです。

柳之御所遺跡(南側)

遺跡に沿って歩いていると

いかにも「いらっしゃ〜い」的な

鎖もない入口を発見。

そこにあった案内を確認すると

ここは時間に関係なく、

自由に入れそうです!

赤矢印の「現在地」から

ガイダンスセンター方面には、

お堀跡が復元されています。

これが藤原さんのお堀か〜!

平安時代にもこれだけ本格的な

堀があったんですね!

ちょっと感動です。

妻に堀底に降りてもらい撮影。

妻の身長は159cmなので、

堀の深さも同じくらいでしょうか。

「政庁(居館)を囲む堀」

以下、案内です。

「奥州藤原氏の政庁(居館)

=平泉館にあたる柳之御所遺跡は、

北上川と大きな堀によって囲まれ、

周囲から区切られていました。

12世紀後半に最初の堀が埋められた後、

内側により巨大な堀

(およそ幅 14m、深さ4m)が

作り替えられています。

堀からかわらけや木製品、

橋の部材等多くの遺物

が出土しています。」

ここに書かれた巨大な堀が、

こちらです。

お〜これは凄い!

妻と二人して

諏訪原城の丸馬出しみたいだ!」と

はしゃいでしまいました(笑)

ちなみにその丸馬出しは

こんな感じです。

徳川家康が築いた鉄壁の防御施設、

巨大な諏訪原城の丸馬出し。

話はまた平泉に戻って、

馬出し・・いや堀の案内を確認します。

「伽羅御所跡への道」

以下、案内です。

「柳之御所遺跡(平泉館)の南側には、

低地である猫間が淵遺跡をはさんで、

伽羅御所跡が接しています。

この遺跡は歴史書「吾妻鏡」の中で、

藤原秀衡の日常の居所として

記述されている

「加羅御所」の推定地となっています。

2つの遺跡は掘や低地によって

区画されていますが、

この場所では

堀をまたぐ橋が見つかっています。

秀衡の時代には、

政治の場である平泉館と、

生活の場である加羅御所とを、

橋や道路で結んでいたと考えられます。」

伽羅之御所跡の位置図を拡大。

橋跡。

最後に奥の掘りも少し見学。

ここも深いですね!

形的には薬研堀っぽいかな?

平泉での散策はここで全てが完了、

日没とともに

風がかなり寒くなってきた中、

あとは平泉駅に戻るだけです。

 

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