瑞泉寺(京都市)幕末編

 

もう一つの顔

高野山で切腹した豊臣秀次とその家臣、

三条河原で処刑された

秀次の妻妾・子供39名ら

一族の菩提を弔う為に創建された瑞泉寺。

そんな瑞泉寺の

「もう一つの顔」を知ったのが、

山門前に立つこちらの標柱です。

「目付 海防掛 岩瀬忠震いわせただなり宿泊所」

「福井藩士 橋本左内訪問之地」

標柱は秀次さんの反対側に

新しく建てられていて、

お寺で頂いた資料によれば、

同じ志を持った二人は、

ここ瑞泉寺で対面しています。

瑞泉寺が幕末・維新の

重要ポイントにも関係していたとは、

全く認識していなかっただけに

駒姫や秀次さんのお墓に参る前、

僕たち二人の気持ちは、

一挙に桃山時代から300年後の幕末へと

ワープしてしまったのです(笑)

岩瀬忠震と橋本左内

僕たちはこの旅の3年ほど前、

信長の鉄砲三段撃ちの

「長篠の戦い」として有名な、

設楽原古戦場を散策後、

設楽原歴史資料館を訪問し、

地元の設楽氏をルーツとする

岩瀬忠震という人を初めて知りました。

歴史資料館と岩瀬忠震像。

僕たち史上トップクラスの

親切丁寧な資料館だったので、

僕は昨日の事ように思い出せますが、

妻の記憶には・・恐らく・・(汗)

館内には岩瀬忠震コーナーが設けられ、

そこには橋本左内との接点が、

下記のように案内されていました。

「開国条約の調印者ー忠震」

「安政四年(1857)12月、

交渉の全権を命じられた忠震は

外国奉行として

日米修好通商条約の調印を目指すが、

老中堀田正睦ほったまさよしとともに交渉にあたった

条約勅許は朝廷に拒否された。

この頃の苦悩を、

福井藩士橋本左内への

手紙でしのぶことができる。」

このように記されています。

自分の苦悩を吐露出来る程に、

二人の関係は親密だったのでしょう。

こちらは昨年(令和6年)訪問した、

福井市の橋本左内墓所近くに建つ、

橋本左内の銅像です。

志半ばで伝馬町で斬首された左内、

しかしその精神は福井市民に

受け継がれ今も生きています。

そして、

二人のランデブーは瑞泉寺(笑)

こちらが令和五年一月の建立された

瑞泉寺山門前の石碑の案内で、

以下は同じ文言を書き出した

参拝者用の資料です。

以下、抜粋要約です。

「岩瀬忠震は幕末の旗本、

すなわち徳川家(幕府)の直臣。

安政五年(1858)六月、

日米修好通商条約の締結にあたり、

全権として中心的な役割を担った。

しかし、その後、

大老井伊直弼と対立、

いわゆる「安政の大獄」の一環として、

謹慎処分を受け、

文久元年(1861)七月に病死した。

忠震は、文政元年(1818)十一月、

旗本設楽貞丈の三男に生まれ、

天保十一年(1840)、

旗本岩瀬忠正の養子となり、

岩瀬家を継いだ。

嘉永六年(1853)六月、

ペリー来航の後、老中阿部正弘により、

重職である目付(監察)に登用され、

外交政策を審議する海防掛に任じられた。

安政四年(1857)には、

通商条約の締結が計画される中で、

下田奉行井上清直とならび、

交渉全権に就任した。

老中堀田と岩瀬は、調印に先立ち、

孝明天皇をはじめとする

朝廷の事前の許可(勅許)を得るため、

翌安政五年正月に上京した。

その時の岩瀬の宿所がこの瑞泉寺である。

しかし、朝廷は勅許を拒否し、

岩瀬はこれに憤慨しながらも

江戸に帰ることになった。

いっぽう 同じ頃、

岩瀬は、十三代将軍家定の後継に、

一橋慶喜(のち十五代将軍)を

送り込もうとっする運動にも、

積極的に加担していた。

岩瀬と同じ立場で運動していた有志の一人に、

越前松平家(越前藩)の当主、

松平慶永よしなが(春獄)がいる。

慶永が信頼する家臣の橋本左内は上京して、

朝廷の有力公卿たちを説得し、

将軍の跡継ぎとして、

一橋慶喜を指名する

内々の勅書を降ろしてもらうよう、

政治工作にあたっていた。

志を同じくする岩瀬と橋本は、

それまで面会する機会がなかったが、

岩瀬が京都を出立する前日の

三月二十四日、

橋本が瑞泉寺を訪問し、

ここに両者の会談が実現した。

この瑞泉寺が歴史的な遺蹟として、

記念されるべき意味を持つのは、

以上の経緯による。」

ここから先は条約調印、失脚、

そして岩瀬忠震が

亡くなるまでが記されています。

橋本左内も安政の大獄で斬首され、

二人は共に

この世に未練を残しての最後です・・

福井藩士(越前藩士)の橋本左内が、

福井の笏谷石製の石櫃を墓石とする

秀次公の墓が建つ瑞泉寺を訪ねたのも

何かの因縁を感じ、

もしや秀次公のお導きで、

二人は会談できたのかも

などと思ってしまいます。

人は「この道が正しい」と信じ、

努力し、奔走し、

そして死を迎える・・・

それでいいのです・・

いや、それしかないのか・・な?

山門をくぐって、

瑞泉寺を後に・・・

(瑞泉寺 完)

 

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