旭城(福岡県豊前市)
明治時代のお城
意外なことにお城の築造は、
江戸時代までではなく、
幕府が倒れた後、
明治時代に入ってからも
続けられています。
その一つが、豊前市の旭城です。
Google Mapには、
1万石の小藩だった為か、
「旭城」の名前とともに
「千束陣屋跡」と書かれています。
明治初期から
城域は神社となっていますが、
開発の波にも飲み込まれず、
石垣もかなり良好に残り、
往時の姿を想像させてくれる
貴重な城跡です。
案内
車を神社の境内に置き、
まずはお城の案内を確認。
「旭城跡(千束城)」
案内文を書き出すと、
「千束(ちずか)八幡神社の敷地と
その周辺が城跡です。
江戸時代には現在の
豊前市と新吉富村の一部は
新田藩と呼ばれる
小倉藩小笠原氏の支藩でありました。
藩主の居館は、領内にはなく
小倉城下の篠崎にありましたので、
篠崎藩とも呼ばれていました。
慶応二年(1866)
小倉藩と長州藩との戦いで、
小倉城、篠崎邸ともに焼け落ちたため、
当主の小笠原貞正は、
小倉藩主小笠原豊千代丸とともに
田川郡香春に逃れました。
その後貞正は領内の当郡に来て
安雲(新吉富村)の光林寺に入り、
明治二年(1869)、
塔田原(とうだばる)と呼ばれていた
この地に居館を構えることにしました。
ここにはかつて多くの古墳があり、
その古墳の石を使って石垣を築き、
明治三年(1870)に完成して、
旭城と名付けられました。
しかし、時代は明治の新政府によって
激動の時を迎え、
明治四年(1871)の
廃藩置県さらに廃城令が出される中、
築城間もない旭城はその使命を終えます。
短命であったこと、そして全国で
最後に築かれた城という意味で、
歴史にその名を残した城でもあります。
現在も城跡である
千束八幡神社の周辺には
多くの石垣が残されており、
当時の名残をとどめています。」
このようになります。
石垣
縄張図などは紹介されていませんので、
当時の様子はほぼわかりませんが、
ここでの見所は、何と言っても石垣です。
というか、石垣のみが
目に見える遺構です(笑)
千束小学校の校庭に面した城域。
小学校を背にして、
大手(推定)から見た石垣。
大手道?
丸身をおびた古墳の石が、
よく分かるシチュエーション。
大手付近の石垣近影。
切込み接ぎも完成形だった
江戸時代も終わり、
明治時代に入っているにも関わらず、
戦国時代前期のように
自然石(古墳の石)を
そのまま使い石垣を積んだのは、
やはり「倹約」のためだったのでしょうか?
このあたりは、加工した石と
そのままの石のミックス。
東側から見た旭城。
現在真ん中の入口は、
神社の参道となっています。
参道脇の石垣は、大手とは違い、
かなり加工されたものが
多く使用されています。
東側の石垣を撮影。
これにて、
旭城としての訪問は完了し、
次に石垣内部に鎮座する、
千束八幡神社へと向かいます。