小倉城(令和3年冬旅)後編

 

新たな発見

遠方を旅する時、

「ここに来るのは一生に一回かも」

な~んて気持ちがあります。

実際にその多くは、

一生に一回になりますから

気合が入りすぎたりもします(笑)

しかし県内やその周辺であれば、

同じ場所に何度も行く事ができます。

やはり一度よりも二度、三度と

見える景色も違ってきますから

深堀りできるわけで、

これは地の利を活かすしかありません。

というわけで、

妻と小倉城に行くのは、これで三度目。

前編で書いたように、

リニューアルされた天守に登るのが

今回の旅の主目的でした。

その天守では、想像以上の展示内容に

感動まで覚えた僕たちですが、

その周囲にもまだまだ

感動のツボは転がっていました(笑)

巌流島の戦い?

小倉城天守入口の西側で見つけたのが、

2019年、小倉城が

リーニューアルされた時に作られた

こちらの銅像二体です。

一瞬、

宮本武蔵と佐々木小次郎の

巌流島の決闘かと思いきや、

武蔵は木刀ではなく、

二刀流の真剣を持っていますので、

この二人のシチュエーションでは、

別々の場所ということでしょう。

それにしても、

両者ともに表情は真剣そのものですね。

武蔵のアップ。

武蔵のお顔はイメージ通りかな?

小次郎はやはり美少年風(笑)

武蔵、小次郎像の横に建つ、

誠心直道之碑。

案内には、

「(前略)

武蔵は慶長十七年(1612年)

細川藩家老長岡(松井)佐渡興長を訪ね、

佐々木小次郎との試合の許可を依頼した。

長岡佐渡は藩主細川忠興の許しを得て

四月十三日に舟島(後の巌流島)で

立会うことになった。(二天記より)

長岡佐渡の屋敷跡は

現在の小倉城庭園である。

武蔵はこの屋敷にもとどまったという。

「誠心直道」は、武蔵創始の兵法

二天一流の真髄である。

このたび、小倉の士が十一代を相伝したので、

武蔵ゆかりの地に碑が建立された。」

このように書かれています。

Wikipediaによると、

この中の松井(長岡)興長という人は、

細川忠興、忠利、光尚、綱利と

四代の主君に仕え、

後に八代城の城代となり、

その家系は明治維新まで続いています。

ちなみに若かった頃の

綱利公には浪費癖があり

それを興長が松井家存続をかけて

諌めたそうですが、

その浪費癖と関係あるのか

無いのかは不明ながらも

僕たちは過去の旅において、

綱利公により建てられた、

國造神社の本殿や、

早吸日女神社の総門など

立派な建物を見る事が

出来たのは事実です。

かなり話が脱線してしまいました(汗)

こちらは誠心直道之碑建立の

経緯が詳しく書かれた碑文。

城内散策

まずは、天守入城前の写真です。

前編でも書きましたが、

最初は曇り空でした。

それが天守の最上階では青空が見え、

天守から出て来た時には、

こんな姿に・・・

まるで、小倉城さんが、

「この背景で撮ってね!」

と言わんばかりの、

シチュエーションです。

「お天気ギャップ」(笑)だけで、

感動の渦に巻き込まれた僕たちは、

城内を散策しながら次なる目的地、

小倉城庭園を目指します。

石垣と天守。

大手門。

鏡石と妻の大きさ比較。

(天守入城前に撮影)

小倉城とリバーウォーク。

天守北側から。

この位置から見ると、

石垣の高さと、建物の高さが

半々くらいの比率なのが

よくわかりますね!

ここが小倉城定番スポットかな?

最高の小倉城天守が撮れて大満足。

今日の何だろう?

天守の石垣で発見した穴。

下から上にいくつもの穴があります。

楔(くさび)を打ち込んだ穴でしょうか?

いつかは解明出来るはず(笑)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください