江戸城(天守台)

 

4代目の天守台

江戸城の天守は、

3度建てられています。

その3度とは、

1.慶長12年(1607)

2.元和9年(1623)

3.寛永15年(1638)

順に初代将軍、徳川家康

二代将軍、秀忠、

三代将軍、家光によるもので、

家光さんの天守が、

明暦3年(1657)、

「明暦の大火」で焼け落ちた後、

万治元年(1658)造られたのが

現在の天守台です。

勿論、天守も造られる予定でしたが、

結局は中止され今に至っています。

この頃には幕政も安定して、

「権威の象徴」としての機能を

巨大な天守に求める必要もなくなった事や、

資金難などの理由からの

中止だったようです。

天守台

江戸城天守復元模型を見学後、

今度は本物の天守台へ(笑)

本丸。

今は芝生の広場ですが、

江戸時代には、

本丸御殿が建っていた場所です。

天守台に到着。

天守の模型の前にあった、

4代目天守台の解説で、

「白い安山岩が用いられ、

一部が寛永期天守台の

伊豆石という黒い石を

再利用した」

このように書かれていましたが、

まさに小天守台には、

黒い石が使われていますね!

この石は、

家光さんも見た石でしょうから

家光さんと同じものを

僕たちも見ていると考えると、

ちょっと嬉しくなってきます(笑)

大きさ比較の為、妻登場(笑)

この天守台の築造を担当したのは、

加賀藩5代藩主、前田綱紀で、

本丸工事の監視役は家光さんの異母弟、

将軍家綱の補佐役、保科正之です。

Wikipediaによると、

綱紀さん、

天守台を造っている真っ最中に

保科正之の娘と結婚しているんですね。

いや~これってなんなんでしょうか!!

明暦の大火は二人の恋の導火線だった?

そんな訳ないか~家と家の結婚だし(笑)

保科さんが、

「天守造るのやめよっか~?」

と言ったので天守は造られなかったという

説がありますが、

娘婿(綱紀さん)にこれ以上の散財を

させたくなかったのかも知れないし、

この関係性を見ると、

間違いないかもですね(笑)

天守台の案内。

冒頭に書いたようなことが、

説明されています。

「江戸城本丸御殿」

案内を書き出すと

次のようになります。

「この天守台から見える

大芝生とその周辺には、

江戸城本丸御殿の建物が

立ち並んでいました。

本丸御殿は、表、中奥、大奥という

三つの空間に分かれていました。

表は、将軍の謁見など公式な儀式、

行事、幕府諸役人の執務の場で、

中奥は将軍の日常生活、

政務を執る場、

大奥は御台所と呼ばれた

将軍の正妻をはじめ

家族や女性たちの生活の場でした。」

案内図を見ると、

大奥は天守台のすぐ目の前です(笑)

大奥を妄想しながら(笑)

天守台から本丸御殿跡を俯瞰。

次に天守台の上へ。

天守台上から本丸方面の眺望。

ここにも家光さん時代の「黒い石」が

使われていますね!

天守北側からは

日本武道館の「大きな玉ねぎ」も

見えています。

再度、南東側から天守を半周。

天守東側面。

天守左の御殿側は、

幕末の火災の影響でしょうか、

石が内部破裂していますね。

天守東北側。

これにて、天守台の散策は完了し、

次は搦手の北桔橋門へと向います。

今日の発見

天守台の横で発見したのが、

こちらの建物です。

事前知識もなかったので、

お寺かなにかかと思っていたら、

こちらは昭和41年(1966年)

昭和天皇のお妃、

香淳皇后の還暦を記念して建てられた

「桃華楽堂」(とうかがくどう)と

名付けられた音楽堂でした。

 

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