鉢形城(埼玉県寄居町)中編
討死
鉢形城は荒川の
河岸段丘を利用して築城されています。
戦国時代までの城では
「定番」といっていい城域の選定で、
同じく河岸段丘上の城でした。
ただ、その縄張りの素晴らしさを
余すことなく表現するには、
ドローンを使って俯瞰するか、
城とは少し離れた
場所から撮影するかしかなく、
過去、何とか表現出来たのは、
長篠城くらいでしょう・・・
もちろん、
秀吉軍が落城させた鉢形城でも
あえなく討死となった僕でした(笑)
本曲輪
生命力抜群の氏邦桜を見た後は、
城の中枢だった本曲輪へ。
赤丸で囲った部分が、
中編での散策場所です。
伝御殿曲輪。
先人達が踏み固めた後を辿って、
この端っこに見える小山を登り、
本曲輪へと向います。
エントランス。
食い違い虎口的ですが、
これは後世のものかも知れません。
本曲輪。
荒川沿いに物見台的な土塁があります。
土塁から本曲輪を俯瞰。
途中、田山花袋碑があります。
漢詩碑。
書き出すと、
「襟帯山河好雄視關八州
古城跡空在一水尚東流」
このようになります。
意味は・・・何となくわかる?(汗)
田山花袋が鉢形城を旅して、
ここの風景を絶賛した時に
作った漢詩で、
碑文を書いたのは武者小路実篤です。
北条氏邦さんの館などがあった
本曲輪中心部へ。
鉢形城歴史館のVRでは、
当時の建物が再現されていました。
「鉢形城本丸址」碑。
笹曲輪
ここからは下り。
搦手方面の笹曲輪を目指します。
休憩所。
柱は荒川の石で作ったのでしょうか?
笹曲輪の全容が見えてきました。
途中の石垣。
戦国時代のものか
否かはわかりません。
笹曲輪の端っこにたつ鉢形城址碑。
笹曲輪内部。
そして、
ここの見所はこちらです。
「鉢形城地形模型」
「鉢形城の構造」
この部分を書き出すると
「鉢形城は深沢川が
荒川に合流する地点に立地しているため、
地形上、東南北側は堅固ですが、
西側は開けており
防衛上の弱点となっています。
そのため城主の居館や上級武士の
館のあった本曲輪から西側に
何重にも深い堀切を行い、
二の曲輪、三の曲輪を
いくつも造成しました。
さらにその外側には寺院を密集させて
寺町とし防御を厚くしました。
大手の位置は、城の西側で、
城の拡張とともに移動しましたが、
最終的には現在の諏訪神社の
南側付近にあったと考えられています。
各曲輪は、掘と土塁で囲まれるほか、
主要な出入口には方形の馬出を備えており、
曲輪ごとに部将が定められ
管理をまかされていました。
また、城の外側は周囲の
小河川を上手く取り込み、
水堀としていました。
深沢川の南側には、
後に城を拡張して外曲輪を造成し、
下級武士の住まいなどとしたほか、
さらにその南側に城下町を形成し、
城の守りを兼ねさせていました。」
このようになります。
こちらが「荒川の断崖側」で、
縄張りがよ~く理解出来る、
見事な模型ですね!
橋から写した荒川の断崖(左側)
対岸の公園から
撮影したかったのですが、
コロナ対策で立ち入り禁止になっていて、
冒頭に書いたように、
「討死」となったのです(笑)
橋から荒川の下流を撮影。
これが東京湾まで
流れているんですね・・・
城山稲荷神社
笹曲輪から引き返し、
途中の神社などを参拝しながら、
大手側へと向います。
伝御殿曲輪を通過。
二の曲輪東側の参道入口。
立派な両部鳥居ですね!
途中、参道と散策路に分岐。
この場所からは、
二の曲輪の全景が見渡せます。
散策路と参道は並行しているので、
僕たちは参道をチョイス。
境内が見えてきました。
ここから御社殿へ。
参拝。
境内社。
「再建之碑」
碑文を要約すると
「当神社は安政年間再建され、
繁栄してきたが、
昭和41年の台風で倒壊後、
翌年再建。
その後、昭和62年、火災で焼失。
しかし、崇敬者により翌年再建。」
このようになります。
崇敬された神様だからこそ、
何度でも立ち直れたのですね!
そういった意味では、
僕たちの人生にも似ていて、
何だか親近感が湧いてきます(笑)
(後編に続く)