平城宮東院庭園(奈良市)
藤原不比等邸の隣
東院庭園が造られた場所は、
藤原不比等邸のお隣です。
黄色の丸で囲った場所が、東院庭園、
そのすぐ右側に「卍法華寺」とあるのが、
藤原不比等さんの邸宅だった場所です。
ここに庭園が配置された理由の一つは、
時の実力者であった不比等さん宅の
お隣だったからかも知れませんね。
資料館
東院庭園に行く前、
不比等さんの邸宅跡の
法華寺と、
東院庭園の北側にある
宇奈多理坐高御魂神社に参拝し、
庭園の包囲網は完璧です(笑)
エントランス。
正面の復元建物は、
資料館になっています。
資料館内。
以降の発掘、再現方法などが
かなり詳しく案内されています。
鳳凰の鬼瓦。
初めてみました!
発掘状況。
復元方針。
「東院」とは
案内を書き出すと以下になります。
「平城宮は他の日本古代都城の
宮殿地区には例のない
東の張り出し部を持ちます。
この張り出し部の南半は、
奈良時代を通じて
「東宮」と呼ばれたようですが、
孝謙・称徳天皇の時代にはとくに
「東院」と呼ばれていました。
称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、
宴会や儀式を催しました。
光仁天皇の「楊梅宮」はもとより、
聖武天皇の「南苑(南樹苑)」も
この場所を中心に
営まれていたと考えられています。」
古代庭園の意匠、工法などの案内。
あの有名な平等院の庭園も
東院庭園の流れをくむようです。
「平城宮東院庭園 遺構模型。
案内を書き出すと、以下になります。
「東院庭園の池は、
奈良時代中期に
大きく造り替えられています。
奈良時代前半の池(下層遺構)は、
玉石を用いたやや急な勾配の岸で、
岸近くの池底には
平らな石を敷き詰めていました。
また、池の西南隅からは
曲水の宴に用いた
蛇行する溝が見つかりました。
奈良時代後半の池(上層遺構)は
前半の池を浅く埋め立てて造っています。
池底から岸までゆるやかに
小石を敷き詰めた州浜にし、
景石を配した岬をところどころに設け、
北岸には築山石組みも造られました。
池には橋が架けられ、
周囲には建物が配置されました。
模型には主に上層遺構を表示していますが、
部分的に掘り下げた
下層遺構も表示しています。」
実に分かりやすいジオラマです。
これを見た直後に、
実際の復元庭園を見て、
その後またこちらで確認すると
完璧でしょう!
でも僕は完璧を目指す事はなく、
庭園散策後、
この案内の事は忘れていました(笑)
東院庭園
資料館で一通りの流れを
頭に入れた後は、
復元された庭園を散策します。
門をくぐって庭園へ。
奈良時代の貴族になった気分です(笑)
ここでサギちゃんがお出迎え。
南側、真横から。
南東の建物。
北東建物前からの景色。
中央建物。
北東の建物を見ながら、
太鼓橋的な橋を渡り、
中央建物の反対側へ。
北東側から見た中央建物
北側から庭園を撮影。
奈良貴族三昧はここで終了。
貴族とはかけ離れた顔の二人(笑)
長屋王邸宅跡遠望
庭園散策後は、資料館を抜けて、
東院南門(建部門)へ。
内側から見た東院南門。
ここをくぐって外側に出ると、
こんな景色が見えます。
ボランティアの方が、
「あの商業施設が建っているのが、
長屋王の邸宅跡なんですよ」
そう教えてくれました。
長屋王と言えば、
思い出すのは「長屋王の変」。
光明皇后の父である
藤原不比等が亡くなった後、
その四人の息子との権力争いで、
最後には、
自殺(処刑かも)した長屋王。
長屋王が死んだ後、藤原四兄弟も
天然痘で全員が死んでしまい、
長屋王の呪いではないかと
恐れられたようです。
「呪い」に関しては、
菅原道真の太宰府左遷と
同じようなストーリーですね(笑)
長屋王邸宅跡に建つ
「ミ・ナーラ」を望遠で撮影。
ボランティアの方のお陰で、
ここを知る事ができて、
ほんとに感謝しています。
外側から見た東院南門と塀。
ここをくぐって散策は終了です。