2022/10/31

稲村ヶ崎(鎌倉市)

 

鎌倉幕府滅亡への海岸

稲村ヶ崎は、新田義貞が、

黄金の太刀を海に鎮めると、

たちまち稲村ヶ崎の潮が引き、

そこを通って鎌倉になだれ込み、

その翌日、北条氏を滅亡させたという

倒幕の重要ポイントです。

新田さんが稲村ヶ崎を突破した

元弘三年(1333)5月21日は、

科学的に「引き潮」だった事も

検証されているようですので、

史実である可能性は、

大いにあるでしょう!

江ノ電・稲村ヶ崎駅へ

江ノ電の旅は、

腰越駅から稲村ヶ崎駅へ。

腰越駅に電車が入線。

稲村ヶ崎駅に到着。

なんか駅名を見ただけで、

ワクワクしてきます!

木造を基本とした、

温かみのあるホーム。

稲村ヶ崎

駅から徒歩で稲村ヶ崎へ。

目的地は既に見えています。

お~ここが、

あの有名な稲村ヶ崎か~!

なんか新田さんが見えたような(笑)

こちらは反対の江ノ島方向。

砂鉄が多いと言われる黒ずんだ浜辺。

途中の橋。

正直、これを渡るのは怖かった~(汗)

稲村ヶ崎の近影。

引き潮気味ですが、

歩いて反対側まで渡るのは

ちょっと無理かな?(笑)

もちろん、新田さんのときは、

もっと潮が引いていたんでしょう。

この岩苔、ツルッツルで、

妻は二回転んでしまい、

お尻を強打した上、

ビショビショになり、

テンションダダ下がり(汗)

しかし、これは、

次なる出会いへの伏線だったのです!

(次回のブログにて判明します)

ちょっと潮が引いた?

何とか行けるか?

いや、まだ死ねないな(笑)

こちらは崖で見つけた人工的な穴。

戦前、日本軍が使っていたものだと

ネットには書かれています。

妻の尾てい骨が、

折れていない事を確認し(笑)、

海岸上の公園へ。

ここには、

新田さん関係の石碑があります。

一番奥のものは、

経年劣化で、何が書かれているか

全く判別不能なので、

手前の二つを確認。

「史蹟 稲村ヶ崎 新田義貞徒渉・・・」

松の新緑の成長で、

新田さんが段々隠れています(笑)

明治天皇御製 新田義貞。

「投げ入れし剣の光あらはれて

千尋の海もくがとなりぬ」

「海軍大将岡田啓介謹書」

この岡田啓介さん、

総理大臣だった時、

二・二六事件で襲撃されるも

秘書官が反乱軍に対し

「私が岡田だ!」と偽り、

身代わりに殺されたことで、

官邸の脱出に成功した方です。

(昔見た映画でも印象的なシーンでした)

そして、石碑の裏側を見ると、

「昭和十九年十月建設」と

書かれています。

B29による日本への

本格的な空襲が、

始まろうとしているこの時期、

和平派だった岡田さんは、

この碑に託し

新田さんに大日本帝国の

ご加護を願ったのでしょうか・・・

これは何だろう?

感性の無い僕には、

このオブジェが、

親指の先が腫れた形に

見えてしまいます(汗)

デザインした人、ごめんチャイ!

これも

新田さんと関係あるのかな?

指紋の部分(笑)には、

何か書かれていますね。

案内を要約すと

「西田幾太郎博士記念碑は、

博士の偉業を記念して、

博士ゆかりの稲村ヶ崎の海岸に建立され、

移設を経て国道134号線沿いに

設置されていたが、

令和元年(2019)十月の

台風第19号の高波で、

記念碑を稲村ヶ崎に退避。

その後クラウドファンディングにより

令和四(2022)年三月、

ここに再設置された。」

このようになり、

新田さんと関係ない事が判明。

そして、

こちらが移設前の案内です。

「七里濱 夕日漂ふ波の上に

伊豆の山々果し知らずも」

この詩が、指に・・

いや石碑に(笑)書かれていたもので、

西田さんが詠んだ詩のようです。

この方、

偉~い哲学者だったそうですが、

僕は初めて知りました。

案内の最後にオブジェを設計したのは、

「坂倉準三」氏と書かれていましたので、

Wikipediaで調べると

過去僕たちが訪問し、

展示内容がめっちゃ素晴らしかった

宮崎県総合博物館

設計していた人でした。

「ボート遭難の碑」

明治時代、12人の生徒が、

この近くの海でボートに乗り遭難し

亡くなったことへの鎮魂碑です。

稲村ヶ崎の山上へ。

頂上に到着。

景色はあまり見えませんが、

こんなものがあります。

「ローベルト・コッホ碑」

解説を抜粋すると以下になります。

「この碑は、世界的細菌学者ドイツの

ローベルト・コッホ博士の来日を記念して、

弟子である北里柴三郎博士

鎌倉市関係者により建立されたものである。

当初、霊仙山頂に建立されたが

地盤の脆弱により昭和58年(1983)

ここに移設された。」

これに続いて、

大正元年に書かれた

碑文の大意の中には

「山(霊仙山)の下の稲村ヶ崎は、

新田義貞中将が武運を祈って

刀を沈めたといういわれのある地である」

こんな一文も盛り込まれ、

石碑が新田さんの栄光の跡である

稲村ヶ崎に移設された理由の

決め手になったのかも知れません。

山を下りながら撮影。

条件が揃えば、江ノ島の右側に

富士山が見えますが、

この日は、想像のみ(笑)

 

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