2022/12/15

伊都国歴史博物館(福岡県糸島市)(4)

 

気分転換

長時間、展示を見学していると、

だんだん眠くなってきます(笑)

なので、

ちょっと道草を・・・

「糸島地方の地形」と題された

ジオラマ風な立体模型。

いつも見る地図は、

反対側(南が下)なので、

海側(海側)からだとちょっと斬新ですね。

こうやって見ると、

東西両端は狭く、

防御にも向いているし、

山を背後に海が開け、

外国船との交易も出来、

やはりここは、「王都」に相応しい

選ばれし場所だったのでしょう。

第Ⅳ章 王墓発見の記録

目が覚めたところで、

第Ⅳ章の展示へ。

掛け軸の人物は、

青柳信種といい、

今から、ちょうど200年前、

文政5年(1822)

偶然発見された

三雲南小路王墓に関する

詳細な記録を残した、

福岡藩の国学者です。

種信さんのお陰で、

僕たちはこんな素晴らしい

展示を堪能出来ているんですね。

種ちゃん、ありがとう!

右、

「「柳園古器略考りゅうえんこきりゃくこう

ー「好古家」種信を象徴する著作」

「「柳園古器略考」は、

記録された遺跡・出土品の重要性と、

克明な記述・図面類の資料価値から

考古学の分野で広く知られる資料です。

「「柳園古器略考」所収の

「三雲古器図考」は、

三雲南小路王墓に関する

種信の記録の中でも

最も早い段階のもので、

情報量も多いとされています。」

展示物を見ると、

種信さん、絵もめっちゃ上手ですね!

「種信と「筑前続風土記拾遺」

「拾遺を編纂中、種信は没し、

完成に至らなかったものの、

その廻村見聞による調査は、

文政3年(1820)~11年の

約9年間に及び、

文政5年に発見された

三雲南小路王墓に関する情報も

「拾遺」編纂のために調査にあたっていた

種信のもとに届き、

貴重な記録が生まれたといえるでしょう。」

偶然といえば、偶然、

必然といえば、必然・・・

この時期に種信さんが、

「筑前続風土記拾遺」を

編纂することがなければ、

「柳園古器略考」も世に出ず、

もしかすると三雲南小路王墓の調査は、

全く違ったものになったかも知れません。

弥生人が、種信さんを

呼んだのかな?(笑)

「失われた銅鏡の貴重な資料

ー三雲南小路出土銅鏡拓本」

「文政5年に三雲小路で

出土した銅鏡3面分の拓本10点が、

5枚の料紙にわかれて残されています。

いずれも鏡の実物は現存しておらず、

全体的にやや不鮮明な部分はあるものの、

形や文様、銘文が写し取られた

重要な記録です。」

写真が無い時代、

「拓本」という奥の手(笑)を使い、

ここまでわかり易く、

後世の人に伝えてくれた種信さん、

福岡藩にいてくれて、

ホント良かった。

また、主君である

黒田の殿様も理解があったから

出来たことなのかもですね!

「三雲南小路での発見の記録(1)」

「三雲南小路での発見の記録(2)」

先程書いた「柳園古器略考」、

「三雲古器図考」などの

資料のことが書かれています。

種信さんが書いた資料の一部。

同じく資料。

「三雲南小路での発見の経緯

ー信種の記録から」

「文政5年2月2日、

怡土郡三雲村の農長(庄屋)

清四郎宅の南隣の、

南小路という所の畑で、

土塀を造るための土取りをしていたところ、

一本が切先を上にした状態で出土した。

地表面から三尺余(約1m)

堀ったところで「銅剣」

(正しくは銅戈)が見つかった。

その下に朱が詰まった「小壺」一点が、

伏せた状態で埋まっていた。

さらにその下を掘ると、「大甕」二点が

合口で横に寝かせた状態で出土した。」

志賀島の金印も同じく、

農家の人が発見していますし、

「農家あるある」の話ですね(笑)

「三雲南小路での出土品

ー信種の記録から」

「銅剣一口、銅戈一口、銅矛二口、

勾玉・管玉、古鏡大小三十五面が

出土しています」

ここまでで、

企画展示の観覧は終了し、

常設展へ移動します。

(続く)

 

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