岩屋神社(福岡県福智町)
手描きの御朱印
福智町の岩屋神社を知ったきっかけは、
ネットで話題になった、
宮司さんが描く(書くではなく)
心のこもった御朱印です。
一枚一枚、
かなりの時間をかけて描かれるため、
対応出来る数にも限度があり、
御朱印を手に入れるのは、
なかなか至難の業のようですが、
僕は御朱印に関して、
「参拝時に、神職さんの奉仕の
妨げにならない場合には授与していただく」
というスタンスなので、
今回は純粋に参拝したかったのが
岩屋神社訪問の理由です。
裏参道
Google Mapが裏参道前の
駐車場をに案内してくれたので、
そこに車を停め、
まずは、裏参道から境内へ。
いきなり、宮司さん手描きの
ウェルカムボード(笑)が出現。
これを見ただけで、
笑顔になれますから
「心のこもった絵」というのは、
ホント不思議な力を持っていますね!
裏参道側の鳥居。
ここから一旦境内を抜けて、
表参道の社頭から、
改めて参拝開始します。
表参道
裏参道から歩くこと300m位、
ようやく表側に到着です。
のどかな田園風景が広がる社頭。
最初に僕たちを迎えてくてるのは、
慶応元年(1865年)
寄進の燈籠です。
向かって左側の燈籠。
そして、ここで注目なのが、
燈籠の「足」(笑)
動物の足!
神社などでは、
たま~~に見かける造りですが、
これは何を意味するのでしょうか?
未だに解明には至ってません。
狛犬と一の鳥居。
「方城岩屋のキンモクセイ」の案内。
「万治元年(1658年)
岩屋神社建立後まもなく
植えられたと伝えられる」
案内には、
このように書かれています。
キンモクセイの実物。
こちらのキンモクセイの枝葉は、
400歳近くながらも生い茂り、
青春そのものの若々しさですから、
これから何百年と元気に参拝者を
出迎えてくれる事でしょう。
天明八年(1788年)
寄進の二の鳥居。
参道右側に建つ、
天保四年(1833年)
寄進の常夜燈(燈籠)。
こちらは参道左側の常夜燈。
天保六年(1835年)寄進の狛犬。
吽形。
ここからは石畳。
火袋が無い左右の燈籠の先には、
拝殿が見えています。
御社殿
御朱印を求めてでしょうか、
若い男女数人を境内で見かけました。
こんな地方の神社で
人に会う事は珍しいのですが、
やはり、ソーシャル効果は抜群なのかも?
拝殿へ。
御由緒。
拝殿には宮司さん手描きの
案内がいくつも並べられていて、
ここでもそんな絵や文章に癒やされます。
屋根を見ると三階菱の神紋。
小倉藩主、小笠原さんの御威光、
ここでも輝いていますね!
参拝。
巨大なダイコク様のお顔。
御祭神の一柱である、
大己貴神(おおなむちのかみ)は、
大国主命(ダイコク様)の別名です。
またこれも、
宮司さんの手作りなんでしょうか?
何となくそんな気がします(笑)
拝殿右から本殿へ。
本殿に参拝。
境内社
本殿の右横には
幾つかの境内社が鎮座しています。
天満宮。
ダイコク様の像などが、
いくつも置かれた境内社。
猿田彦大神。
真ん中のものは寛政七年
(1795)と刻まれています。
貴船社。
中には古い恵比寿様像があります。
「権現」
案内によると、
「ここに権現として祀られている人は、
野地に住んでいた甚兵衛という人です。
非常に郷土愛が強く、
今から三百年くらい前の大飢饉の年、
自分の種籾を食べないで、
「この種籾は弁城村民の種籾にするように」
と言い残して亡くなりました。
お陰で、種籾を食べ尽くした人たちも、
翌年、稲の植え付けが
出来たと伝えられています。
この事が後に
弁城で奥ガ畑の弁財天社の境内に
籾倉を造り種籾の無い人に貸付をし
明治の終わりころまで
続いたといわれます。
甚兵衛さんの自分の命を犠牲にした
郷土愛の御恩に報いるため、
権七谷に「権現」の碑を
建て御祭りしていました。
昭和五十五年頃土砂採取のため
この地に移設しました」
このように書かれています。
金比羅宮。
最後にツーショットで参拝完了。
今日の親切
「権現」の説明文の裏側。
「権現」という言葉は
聞いた事があっても意味を知らない人は
多いかと思いますが、
その「権現」を的確に説明しているのが、
何とも素晴らしいではないですか!
この意味からすると、
人間、誰しもが、「権現」である
可能性を秘めていますよね。
ひよっとして、僕も・・・?
いや、それは無いか~(笑)