金ケ崎要害資料館(岩手県)展示室

前九年合戦
金ケ崎要害資料館は、
江戸時代、仙台藩が、
盛岡藩との藩堺に置いた
要害と呼ばれる武家町の歴史が
主な展示となっていますが、
展示室見学の話の前に、
パンフレットで
平安時代後期に起きた、
前九年合戦の遺構などを確認してみます。
「前九年合戦」は、
「前九年の役」という名で、
呼ばれてきましたが、
近年、後者はあまり使われません。
その理由として「役」というのは、
政権からして敵側の東北を
辺境の地とみなし
反乱者的に見ている表現だから、
平等な感じに(笑)
改めたのかも知れません。
西郷隆盛の西南の役も、
西南戦争という呼称に
変わってきたのと同じですね。
「金ケ崎の前九年合戦の伝承地」
「平安時代後期、陸奥国の奥六郡
(現在の岩手県奥州市から盛岡市の範囲)
を治めていた鎮守府胆沢城の
在庁官人の安倍氏と、
陸奥守兼鎮守府将軍の
源頼義・義家父子ら官軍との戦い
「前九年合戦」が永承6年(1051)から
康平5年(1062)までの12年に亘って
繰り広げられました。
安倍氏の重要拠点「鳥海柵」が所在する
金ケ崎町内も合戦の地となったと想定され、
激しい合戦を物語る伝承が
町内各地に伝わります。」
このように書かれています。
また、興味深いのが、
パンフ右側の記述です。
「(この地域に伝わる)
神社や御堂などの由緒は、
源頼義・義家父子が
神仏に戦勝祈願をして
勝つことができたとあり、
安倍氏に戦力・権力があったことや
源頼義らが清原氏の加勢を受けて
勝つことができたことには触れていません。
よって源頼義らが安倍氏を攻めたことを
正当化し、神仏の加護によって
自らが勝つことができたことを
伝承(由緒)を通じて示そうとした
可能性が考えられます。」
阿弖流為(アテルイ)の時代から
蛮族のような扱いを受けてきた
蝦夷とその末裔の人々、
確かに東北人のこの心情には、
大いに共感する部分でもあります。
「金ケ崎伝承地地図」
前九年の合戦にまつわる
伝承地が多く残っていますね。
全く行く時間がなかったので、
このパンフレットに出会えただけでも
金ケ崎要害資料館に行った甲斐は
あったというものです(笑)
展示室
資料館には案内係の方がいて、
一通り説明を聞いた後、
改めて二人で展示を見学しました。
ここからは案内を抜粋要約しながら
書いていきます。
まずは古代から江戸時代初期までの
金ケ崎の歴史年表をパッと見。
ここでの注目は
「100万年前
胆沢川からアケボノゾウの足跡が発見」
これってめっちゃ凄い事件ですよ!
展示室入ってすぐの床に、
何かありますね・・・
お〜先ほどの
アケボノゾウの足跡だ〜!
「日本にまだ人類が住んでいない時代、
金ケ崎町にはアケボノゾウがいました。
アケボノゾウは
今から約250〜100万年前に
生息していたといわれる
ステゴドン科ステゴドン属の一種です。
体高は約2mと小型で、
長くそり曲がった牙を持ちます。
平成元年(1989)
・・・・胆沢川から像の臼歯の化石が発見。
平成3年(1991)
・・・・臼歯発見の1キロ下流の河川敷で
・・・・足跡の化石発見。」
100万年前に歩いていた像の足跡を
僕たちはガラス越しに
踏みつけているのですから
これはかなり貴重な体験ですね。
足跡の上に乗りながら
これを見ていました・・
展示場全景。
仙台藩21要害の一つ
「金ケ崎要害」について。
「奥州仙台領国絵図」
「江戸幕府は正保元年(1644)に
全国の諸大名に対して
検地帳・国絵図・居城の
詳細な絵図画の提出を命じました。
そこで仙台藩は正保年間
(1644〜1648)に
領地の絵図を作成しました。
この絵図は元禄10〜11年
(1697〜1698)に
幕府から借り受け、写したもので、
仙台藩の領土全体を描いた
最古の絵図です。」
三代将軍、徳川家光が命じた
「正保の城絵図」は知っていましたが、
領地全図なんかも命じていたとは、
家光さん、グッジョブですよ!
絢爛豪華な日光東照宮をはじめ、
江戸時代の歴史を堪能できるのは、
湯水の如くお金を使い(笑)、
大名統制にも容赦なかった
家光さんのいい意味での、
「おぼっちゃま気質」の
賜物といっても過言ではないでしょう。
金ケ崎周辺部分の要害と
21箇所のリスト。
北上川の舟運。
「大町氏と家臣団」
金ケ崎要害のトップ大町氏について。
石高は2千石から3千5百石となり
最盛期の家臣団は約150名と
書かれています。
大町氏八代 盛頼肖像画。
「盛頼は七代影頼の意思を継いで、
鎮守府八幡神社の工事を
完成させています。
この肖像画は大町氏に仕えた
北畠良之助顕昌によって
描かれています。」
鎮守府八幡神社の御社殿再建が
享和三年(1803)ですから
七代影頼さんの時代でしょう。
盛頼さんはまだ1〜2歳ですからね(笑)
また絵師の北畠さんは
お名前に「顕」とあるので、
北畠親房の長男、
北畠顕家さんの末裔かも知れません!
たった一枚の肖像画で、
夢は大きく膨らみます(笑)
大町氏家臣の甲冑。
「金ケ崎城下町の学び」
「大町氏は郷学(現在の学校)である
「明興館」を作って教育にあたりました。
特に「和算」では大町氏家臣、
岩崎清右衛門秋房が、
中西流和算を極め、
元文四年(1739)
免許皆伝を受けています。
その記念に算額を元文六年
(1741)八幡神社へ奉納しています。」
孔子立像。
「正保年間(1644〜1648)に
製作された像で、
大町家伝来の像でしたが、
後に学問の神として、
「明興館」に祀られていました。」
孔子さんも菅原道真さん同様、
学問の神なんですね。
八幡神社へ奉納された算額(複製)。
「和算とは、日本独自に発展した数学で、
算額は和算家が数学の問題を何題か
木板に書いて、神社の絵馬堂や
寺院の客間などに掲げた額のことです。」
そう言えば、
東大寺の大仏殿にも
和算の問題があったな〜・・・
こちらが東大寺で見た算額で、
大仏がお風呂に入ったら
何リッターのお湯が必要か?
そんな問題です(笑)
中西流算術免許状。
要害と両堺ー伊達領・南部領ー
藩堺というのは、
そこでも争いは絶えません・・
「相去六原道之全図」
「江戸時代の三代藩と盛岡藩の藩境で、
藩堺塚の大塚・小塚の個数や築かれた場所、
相去番所の様子などを知ることができます。」
「秘蔵□□境全図」
「寛永19年(1642)に作られた
この絵図は仙台藩と盛岡藩の
境を描いたものです。
駒ヶ岳を起点に藩境塚を丸印として
境界線を描いています。」
「国指定史跡 南部領伊達領境塚」
「領境の争いに江戸幕府が介入し、
寛永十八年(1641)十二月三日、
絵図面の領境に点を打った
「御境目申合覚」を両藩が交換し、
書面上領境を決定しました。
翌年には領境上に、
駒ヶ岳の駒堂を起点に北上川まで
38の大塚が築かれました。
享保六年(1721)には
大塚の間に380の小塚を築き、
境をより明確にしました。」
さすがに県境の争いは無いでしょうが、
今でも国際紛争の多くは
領土の帰属ですね(汗)
「金ケ崎城と大町氏居館」
「金ケ崎要害と侍屋敷」
侍屋敷の模型。
「侍屋敷の様子(江戸時代後期)」
「侍屋敷はサワラヒバなどの
生垣で区画され、
小路に近いほうが居住空間であり、
奥のほうが生産空間(畑など)となり、
金ケ崎の侍は畑仕事などもする
半士半農の生活をしていました。」
ここまでで「要害」についての
展示見学は完了し
最後に見たのがこちらです。
「そして鳥海柵となる」
次回の企画展の準備で、
訪問のタイミングは早過ぎですが、
こんな準備風景を見ただけでも
これから行く鳥海柵への期待が
大いに高まってしまいます(笑)
「ごあいさつ」
「平安時代後期(11世紀)、
陸奥国奥六郡(現岩手県内陸部)で
強大な力を誇っていた在庁官人・安倍氏は、
郡内に柵と呼ばれる城や館のような拠点を
幾つか設け一帯を治めていました。
安倍氏は北上川流域に拠点(柵)を
十二配していたといわれ、
このうち唯一場所が確定している柵が
金ケ崎町に所在している「鳥海柵」であり、
「国指定史跡鳥海柵跡」として
今に残されています。
本企画展では、鳥海柵跡が
国指定十周年を迎えることから、
本史跡にスポットを当て、
昭和三十三年以降
これまでの発掘調査により出土した
鳥海柵成立以前から廃絶後にかけての
史跡の様相を示す資料をもとに
鳥海柵と呼ばれるまでの
いくつかの変遷について紹介いたします。
金ケ崎町が誇る国指定史跡鳥海柵跡の歴史に
想いを馳せる機会となれば幸いです。」
展示品は何も無いけど、
想いだけはめっちゃ馳せています(笑)