精矛神社・渋谷稲荷

 

ゴタゴタ

関ケ原の戦いの直前、

島津家ではお家騒動が起きています。

それは島津義久(義弘の兄)の

島津宗家と筆頭家老である

伊集院氏との確執で、

伊集院氏が成敗された事です。

諸説あるようですが、

このゴタゴタがあったため、

島津氏は大大名にも関わらず、

関ケ原の戦いの前、

大阪へは少数兵力の派遣となり、

当初東軍につく予定だった島津義弘が、

東軍の籠城する伏見城に入れてもらえず、

結果的に西軍につき「薩摩の退き口」へと

繋がっています。

もし大兵力だったとしたら、

東軍についたままで、

その後の歴史は大きく

変わっていたでしょう。

「チェスト関ケ原」もなく、

敗北していないので、

明治維新への原動力にもならず、

西郷隆盛もそんなに活躍もしなく(笑)

西南戦争もなく・・・

幕末維新の事を考えれば、

伊集院氏とのゴタゴタ、

結果的にはあって良かった?

かも知れません。

渋谷稲荷

義弘公ゆかりの小径の終点に

渋谷稲荷は鎮座しています。

渋谷稲荷全体像。

お邪魔します。

「渋谷稲荷の由来

(この御稲荷様の由来)」

以下、全文です。

「この御稲荷様は、東京渋谷の

玉里島津家に祀られていた神様です。

かつて島津義弘公が厚く信奉され、

始終肌守りとして携行されていました。

文禄・慶長の役(1592・1597)

の際にも携行され、

その御加護で狐が姿を現し、

敵の地雷に火を放ち、

敵軍はその地雷に掛かり公は大勝を得たと、

合戦図屏風に描かれており、

又、公が兄の義久公への報告をした

書簡や家臣の記録にも記されています。

その後、義弘公が兵庫湊の本陣

「小豆屋」へお立ち寄りになられた時、

店の主人畠山助右衛門へ御肌守りの

お稲荷様を畠山家へ祭置くよう仰せつけ、

御帰国されました。

それ以来、畠山家では本陣内に神社を建て、

手厚く尊崇し続けたと伝えられます。

明治になって、

島津久光公が御上京(明治六)の際、

同本陣にご宿泊なさりました。

この時、主人である畠山助右衛門より

直々にお願いがあり、

こん御本陣も維新後、御本陣としての営業も

立ち行き難く大変難渋することとなり、

代々お預かりしていたお稲荷様を

島津家でお引き取りいただけると有難い、

との申し出がありました。

久光公はこれを了承され、

畠山邸を御出発の際は御唐櫃に納め奉り、

東京の内幸町の御邸へ持ち帰り

御書院の間に奉安し、

御邸内に神社を新築され御遷座されました。

この度、玉里島津家より

島津義弘公没後400年を期に、

御稲荷様を再び義弘公の元へ

お返ししたいとのお申し出があり、

ここ精矛神社境内に

東京の玉里島津家の社殿の設計図通り

御社を新たに築き、御遷座いたしました。

令和元年十一月吉日

島津義弘公没後400年

記念事業実行委員会」

紆余曲折あったにせよ、

400年以上も守り続けられる

お社というものは、

それだけでご利益をいただけそうです。

「継続」というご利益を!

参拝。

ここで気になるのは左右の狛狐です。

この笑顔、素敵じゃないですか!

そして妻が見つけたのが、

こちらです・・・

へ〜これ、

チェンソーアートだったんだ〜!

しかも神社境内の御神木から

加工されていますので、

ご利益倍増(笑)です。

お顔アップ。

向かって左側の狛狐。

こちらも笑っておられます。

慰霊碑

駐車場に戻る途中、慰霊碑へ。

帰りは山道じゃなく広場を通ります。

慰霊碑のエントランス。

参拝。

日清戦争の慰霊碑かと思われますが、

詳細は不明です。

今日の注目

境内に設置された自動販売機、

地元ならではのものです。

向かって右側横には、

西郷隆盛の肖像画があり

「明治維新の立役者

温厚で豪快な人柄で

今も多くの人に慕われる

薩摩の英雄」

このように書かれています。

そして反対側の側面を見ると・・

西南戦争では西郷と敵味方に分かれた

大久保利通で、

「明治政府を牽引し、

近代日本の礎をつくった

維新三傑の一人」

このように書かれています。

西南戦争では敵味方となった

西郷さんと大久保さんが、

今では二人仲良く

同じ飲料を売っている姿、

微笑ましいじゃないですか(笑)

 

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