実窓寺磧(鹿児島県姶良市)

 

13年後に地蔵塔建立

元和五年(1619)島津義弘の他界に際し、

13人の家臣が殉死しています。

その頃薩摩藩では、

殉死を禁止していましたので、

この13人は君命に

背いた形になっていますが、

殉死から13年後の寛永九年(1632)

藩主・島津家久(義弘の子)は、

その家臣らの気持を憐れんで、

伊集院の妙円寺に

13人の地蔵塔を建てました。

その地蔵塔は、

明治の廃仏毀釈も乗り越えて、

現在もなお大切に供養されています。

こちらは以前訪問した妙円寺跡、

現在の徳重神社に建つ

13人の地蔵塔になります。

この中の7人が今回訪問した

実窓寺磧じっそうじがわらで切腹した方々で、

写真手前の色紙仲兵衛さんもその一人です。

一番安全な場所

実窓寺は島津義弘の妻の菩提寺で、

廃仏毀釈で跡形もなくなっていますが、

殉死した方々の供養塔は、

「実窓寺磧」として

交番の真ん前に建っています。

右が交番、左の電柱の先が実窓寺磧です。

側面の「K. P.」の文字、

一体なんだろうとよく見ると、

「KAGOSHIMA  POLIS」の

略称でした(笑)

ガラスドアのデザイン、

島津義弘公が始めたという

「クモ合戦」のデフォルメに

見えてしまうのは、

僕だけでしょうか?(笑)

こちらは実窓寺磧の前に訪問した

精矛くわしほこ神社のクモ合戦の石碑です。

似てる?似てない?

似てる事にしておきましょう(笑)

道路端の小さなスペースですが、

ちゃんと案内もあります。

以下案内の抜粋・要約です。

「島津義弘は元和五年(1619)

七月二十一日、加治木屋形で

八十五年の生涯を終えました。

この時、藩主家久(義弘の三男)は

殉死を禁じましたが、

義弘に深い恩義を感じていた家臣十三名が

密かに切腹の誓詞を

交わして後を追いました。

ここ実窓寺磧は、

義弘の遺骸が鹿児島福昌寺

(島津家の菩提寺)に向けて

加治木を出発する八月十六日に、

家臣七人が切腹自刃した場所です。

当時、この事蹟を記念する

松が植えられましたが、

長い年月の間に枯れたため、

加治木の諸士は

この旧跡がなくなることを憂えて、

安永五年(1776)に

石碑を建立しました。

また、

加治木島津家第六代久微(ひさなる)は

天明五年(1785)に石燈籠を建て、

毎夜明かりを灯しました。」

まずは一番奥の石碑へ。

参拝。

裏面には建立月日、

「安永五年丙申五月十一日」と

刻まれています。

石碑の根本付近には、

ここで切腹した家臣13人の

名前が刻まれています。

「桐野」ってありますが、

西南戦争で西郷さんの片腕だった

桐野利秋の祖先かも?

勝手過ぎる推測ですが(笑)

冒頭に書いた地蔵塔の

色紙さんもいらっしゃいますね・・

島津久微が天明五年に建立した石燈籠。

明治四十四年、

敷地の拡張と整備された時の石碑。

「殉死碑」と読むのでしょうか?

難しい!(汗)

エピローグ

実窓寺磧で鹿児島での旅程は全て完了し、

あとはレンタカーを返却し、

自分土産を買い(笑)

新幹線で博多へと戻るのみです。

カースタレンタカーで貰った

「いもグミ」と「ティッシュ」。

とにかくこのお店、

店員さんの感じも良く、

心和むサービスでのおもてなし

実に素晴らしかったです。

新幹線改札へ。

待ち時間、腹が減ったので、

僕一人が、

ゆで卵とコーヒーで、ブレイクタイム。

塩まで付いているのには、

驚き&大喜びでした!

帰りはの「つばめ」にご挨拶。

車両独占!?

今回の鹿児島旅、

戦国あり幕末あり、

そして何より特攻ありの

盛りだくさん。

あ〜楽しかった〜!

 

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