精矛神社・義弘公ゆかりの小径

 

地域に愛される神様

島津義弘が祭られる、

精矛(くわしほこ)神社。

境内は無人ですが、

素晴らしく手入れが行き届き、

見所の各所には、

親切な案内板も設置されていて、

地域の人々から愛され、

大切にされている感が満載です。

ここに佇むと、

毎度の事ながら(笑)

御成敗式目の

ワンフレーズが頭をよぎります。

「神は人の敬いによりてその威を増し

人は神の徳によりて運を添ふ」

神様と人は一方通行ではなく、

お互いに高め合う関係である。

この日本人の原点ともいうべき道理を

800年も前に言語化した

北条泰時の聡明さに、

改めて思いを馳せてしまいます・・

石臼・手洗鉢

本殿参拝後、

境内の見所を巡ります。

まずは拝殿・本殿右後方にある

石臼・手洗鉢へ。

朝鮮から持ち帰った石臼・手洗鉢。

以下、案内の抜粋です。

「万齢山椿窓寺(加治木町反土)の

住職であった鳳山和尚が

島津義弘に従い文禄の役

(1592〜93)に

陣僧として従軍した際、

朝鮮から持ち帰ったものです。

出兵時は武器や軍馬、

兵糧などを船底に満載し、

船脚を深くして海を渡りますが、

帰国時はそれらが戦で消費され、

空船に似た状態になります。

これで荒波の朝鮮海峡

(対馬と朝鮮半島の間の海峡)を渡るには

軽くて船底が安せず、

沈没の危険があったため、

船の底荷として使用されたと

考えられます。」

理論はよく分かりましたが、

軍馬も「戦で消費され」の

中に含まれるのでしょうか?

島津義弘が朝鮮に連れて行った猫は、

7匹中2匹が生還していますが、

大きな馬だと難しい気もします。

現地の人にあげて寿命を全うした馬も

いたかも知れません・・・

なんて、

思わず馬の気持ちになってしまった

自分がいます(笑)

石臼。

手洗鉢。

「経典読誦塔」

以下案内全文です。

「宝珠山吉祥寺(加治木町錦江町)の

開山を務めた松岳和尚は、

島津義弘が朝鮮の役で出陣するにあたり

陣僧として従軍を願い出ましたが、

既に他の者が随行することが

決まっていました。

そこで義弘は、朝鮮に赴く将兵の

武運長久を祈るよう命じ、

和尚は慶長3年(1598)9月から

慶長12年(1607)4月まで

実に8年半以上の歳月をかけて、

一万三千部の法華経を読誦したといいます。

石塔は読誦の完遂を記念し、

元和2年(1616)に

かつての吉祥寺の庭に

建てられたといわれています。

別名「経塚」とも呼ばれ、

碑文は島津家の政治・外交顧問を務めた

高僧・南浦文之和尚が作成したものです。」

なんか、凄いものですね!

慶長の役も終わり、関ケ原の戦いを経て、

読誦を完遂した松岳和尚、

やはり偉大な上司には、

それを支えて有り余るほどの

偉大な部下がいるものです。

エントランスで妻が見つけた

狛犬風の手水鉢。

猫好きな義弘さんだから

ひょっとして狛猫かも?(笑)

義弘公ゆかりの小径

次に令和元年に整備された

「義弘公ゆかりの小径」へ。

エントランスの御神木、

樹齢は300年と記されています。

冒頭に書いたように案内も親切で、

迷うことは一切ありません。

祖霊殿。

参拝。

ここからが本格的な小径です。

以下案内の全文です。

「島津義弘公(1535〜1619)は

戦国時代に活躍し数々の功績を残した

無敵の武将でした。

一方、武将としての性格には

似つかない人間や自然に優しい心を持ち、

茶の湯や学問にも秀でていました。

また、家来やその家族にも

手を差延べる温かい心を持った

人物でもありました。

それを物語る幾つかの事例や習わしが

脈々と引き継がれ、

現在でも私達の周りで生きており、

広く親しまれています。

ここにその代表的なものを並べた

「義弘公ゆかりの小径」を造りました。

令和元年11月吉日

島津義弘公没後400年

記念事業実行委員会」

ここから稲荷神社までの両脇に

10個の石碑と写真・案内がありますので、

以下、解説を抜粋していきます。

「加治木太鼓踊り」

「島津義弘公が疫病を鎮めるための

江戸の念仏踊りの事を聞き、

それを地元でも広めたもので、

県の無形文化財に指定されています。」

「茶器供養碑」

「義弘公は、茶道を千利休に師事するなど

正統派の「茶人」でした。

また、義弘公が住んでいた加治木屋形裏にも

窯を作り、好みの茶器を焼くなど

茶の道を愛した文化人でもありました。」

「吉左右(きそ)踊り」

「文禄・慶長の役の様子を模したもので、

2列に並ぶ踊り手が刀を持つ島津軍と

薙刀を持つ朝鮮軍に分かれて歌いながら

踊ります。

歌う歌詞には平和を願う意味が

込められています。」

「愛馬 膝跪騂(膝つき栗毛)の碑。

「元亀3年(1572)日向を治めていた

伊藤義祐氏との木崎原合戦において、

伊藤家の家臣、柚木崎丹後守政家と

一騎討ちとなった際に、

義弘公の突き出した槍がわずかに届かず、

あわやという時に、

突如愛馬が膝を折伏せたため、

そのまま槍は政家の胸を

貫いたという伝説が有ります。

この馬はそのことから

膝跪騂(栗毛色の馬を指す)と呼ばれ、

義弘公に伴って20数回もの戦いに参陣し、

83歳(馬齢29歳)まで

生きたとのことです。

お墓は帖佐の亀泉院跡に有ります。」

馬のお墓といえば、

以前参拝した源義経の愛馬、

太夫黒(たゆうぐろ)の墓しか

知りませんでしたが、

ここにもあるとは驚きです。

「龍門司焼」

「義弘公が朝鮮から陶工を連れ帰り、

加治木・帖佐で陶器づくりをさせました。

「龍門司焼」は義弘公に仕えた

渡来陶工の何芳珍の孫、

山元碗右ヱ門が開窯し、

現在でもその子孫等に受け継がれ、

加治木で採出する粘土や釉薬を使用して

「登り窯」で焼かれています。」

佐賀藩の有田焼と同じで、

朝鮮の役で日本に連れ帰った陶工が、

大活躍したという

日本の陶器あるあるのお話ですね。

「猫塚(島津のヤス猫)」

「義弘公は朝鮮出兵の際、

7匹の猫を連れて行き

各部隊に配置しました。

猫の瞳孔の開き具合を見て

時刻を推測するためでした。

連れて行った猫のうち5匹は戦死、

2匹は生還しました。

この猫には黄色と白の波状が有り、

朝鮮にて病死した義弘公の次男

「久保(ひさやす)」に愛されていたため

「ヤス」と命名され、以来当地では

この毛色を「ヤス猫」と呼んでいます。

現在、仙巌園に「猫神社」として祀られ、

例年6月10日の時の記念日には

時計業者による「猫神さま詣り」が

行われているようです。

このたび、

義弘公没後400年を記念して

この地に供養碑を建立しました。」

「ヤス」?(笑)

「クモ合戦」

「義弘公が文禄・慶長の役に出陣した際、

兵士の士気を高めるため、

「コガネグモ」のメスを戦わせたのが

始まりだと言われ、

現在は毎年6月の第3日曜日に

大会も開催され、

「記録作成等の措置を講ずべき

無形の民族文化財」、

「プロジェクト未来遺産2018」にも

登録されました。」

「灰汁(あく)巻き」

「戦国時代薩摩ではもち米を

灰汁に浸けて炊いた

「灰汁巻き」を保存食として作り、

義弘公は関ケ原の戦いにも

持って行ったと言われています。

現在では観光土産としても作られ

広く販売されています。」

「欄干橋」

「欄干橋は、義弘公が加治木屋形の南堀に

かけられた橋です。

橋の欄干に「擬宝珠」が取り付けて

あったため「擬宝珠橋」とも呼ばれました。

現在その石橋は護国神社境内に移設され、

「擬宝珠」は「指定有形文化財」となり

加治木郷土館に展示保存されています。」

「加治木まんじゅう」

「義弘公が欄干橋を作る際、

工事の職人たちの休憩時の

お茶うけに出されたのが

始まりだと言われています。

もち米と麹を主とした

独特な甘酒を使用しており、

ふっくらした生地と

美味しいアンコが特徴です。

現在は「加治木まんじゅう」と言う名で

広く県・市内外にも知られており、

子供からお年寄りまで

人気の郷土菓子となっています。」

単なる「顕彰碑」一つだけでなく、

全ての物事を「目に見える形」で、

10の物語として石碑で伝える

「義弘公ゆかりの小径」、

本当に素晴らしいものですよ!

これも崇敬者の義弘愛あってのもの、

やはりまずは「心」ありきでしょう。

(続く)

 

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