万倉護国神社(山口県宇部市)

 

武士の栄誉

万倉護国神社の主祭神、

国司信濃くにししなの公(国司親相ちかすけ)は、

元治元年(1864)に起きた、

蛤御門の変(禁門の変)と、

その後の第一次長州征伐の責任をとり

藩主を庇う形で切腹した家老の一人です。

後の戊辰戦争では、

逆に長州藩に敵対した

会津藩、仙台藩など、

奥羽越列藩同盟に加わり

敗北した各藩の家老たちの

多くが藩主に代わって責任をとり

切腹したり打首になったりしています。

身を挺して主君を守ることが、

家臣の務めとするならば、

これほどの栄誉はないでしょう。

ある意味、

三方ヶ原の戦いで、

徳川家康の身代わりとなり

戦場に散った夏目吉信などと

相通じるものがありますね。

案内を要約すると

以下になります。

国司信濃くにししなの公を主祭神に

日清、日露から

先の大東亜戦争に至るまで

この地より出兵し

散華された英霊二百四柱を

顕彰し祀っている。

神社の歴史としては、

慶応三年「たお招魂場」を設置。

その後、昭和十七年、

この地に社殿(護國神社)を建て、

垰招魂場の遥拝所として機能も有した。

さらに平成十八年に利便性を考慮し、

垰招魂場から墓碑を移し、

垰招魂場の名称を

万倉招魂場と改めた。」

拝殿

境内に駐車し、

社頭から参拝スタート。

なんだか、

鳥居横のカイヅカイブキが

神様をお守りする

狛犬的な雰囲気に見えます。

参道。

境内端っこからの全景。

清浄な雰囲気、

心落ち着く風景です。

拝殿。

神額の文字を書いた井上幾太郎氏は、

境内で銅像となっておられます。

以下、案内の要約です。

「元大日本帝国陸軍大将。

万倉芦河内にて生まれる。

陸軍士官学校4期生、

陸軍大学校14期生。

明治27年日清戦争に従軍後、

ドイツ帝国へ留学。

また航空戦術の必要性を唱え、

中島飛行機(現スバル)の社史にも

名前が登場する。」

Wikipediaには

「井上は空軍独立論者であった。

陸軍の航空専門家として

初代陸軍航空部本部長

(後の陸軍航空本部長)に就任し、

本部長時代には政府に

陸海軍共同の空軍建設を上申したが、

却下された。」

このように記されています。

大東亜戦争は、

海の上の戦いだったにも関わらす、

陸軍の飛行機は洋上飛行の技術を持たず、

結局アメリカ陸海軍の全飛行機を相手に

日本海軍の飛行機だけで、

戦う羽目になってしまったという

残念な結果がありました・・・

無論、空軍ができていても

戦争に勝てはしなかったでしょうが、

この人の慧眼には感服します。

参拝。

脇坂安治と同じ、

輪違いの家紋(神紋)に

妻も僕もちょっと興奮(笑)

そしてこの拝殿内には、

様々な掲示物があります。

御祭神、国司信濃藤原親相命肖像画。

黄泉の武士。

「史跡垰招魂場跡」碑の写真。

顕彰碑

次に顕彰碑へ。

「贈正四位国司君之碑」

拝殿内に碑文が書き出されていますが、

漢文なので、あまり理解できず(汗)

石碑横の案内。

一部抜粋すると

「贈正四位国司君之碑は、

明治二十五年に造立された顕彰碑。

題字は毛利元徳(もとのり)である。」

毛利元徳さんは、

長州藩最後の藩主ですから

その前の藩主である

お父さんの毛利敬親公を

守って亡くなった、

国司信濃くにししなの公には、

特別な思いもあったでしょう・・・

「故河本真澄宮司顕彰碑」

案内には、

「万倉神社創建時の初代宮司で、

神道講演の大家と称された。」

このように記されています。

万倉招魂場

次に社殿左側の招魂場へ。

エントランス。

入り口脇には、

国司信濃親相公顕彰像があります。

案内。

銅像アップ。

背中から。

台座には

「元治百周年記念

昭和三十九年十月建之」と

刻まれています。

長州(山口)の人にとって、

禁門の変〜功山寺挙兵へと続く、

元治元年という年は、

「特別に意味深い年」である事が、

各地の神社でひしひしと感じられますが、

ここでも例外ではありません・・・

辞世の歌。

「跡たれて君をまもらむ

みどりそう万倉の山の松の下かげ 親相」

主君を守れた安堵感と、

故郷への想いが凝縮されていますね・・

招魂場へ。

本殿横から参拝。

英霊の皆様へ感謝と慰霊の念を送り、

招魂場の参拝は完了です。

城山神社

境内の端っこには、

小さな祠があります。

背後から撮影。

参拝。

案内を抜粋すると

以下になります。

「祭神:末冨蔵人丞物部朝臣重泰

長門国厚狭郡を本貫とする豪族である

厚東(ことう)氏に仕えたこの地の領主、

末冨重泰の城跡である。

往時、この地に家を構える里人の間に

禍事が起き、

この郷の古の領主の霊を慰めるべし

とのとこから、祠を設け祀り、

今に至っている。

宮尾八幡宮の境内摂社の

玉垂神社の再建棟札には、

末冨重泰再建

明応8年(1499)との記録あり。」

南北朝時代に厚東氏が滅んで、

末冨重泰の一族も途絶えたかも知れませんが、

その人が祭神となって、

令和の世まで崇敬されているのは、

やはり只者ではなかったのでしょう。

最後にツーショットで参拝完了。

 

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