源義経騎馬像(徳島県小松島市)前編

 

義経の軌跡を追う

佐藤継信さとうつぐのぶのお墓に参りたい!」

この妻の一言で今回の旅は大決定(笑)

佐藤継信さんは、

源平合戦の屋島の戦いで、

源義経の身代わりとなって

討死した武将で、そのお墓は

屋島の近くに建っています。

しかし、

どうせ屋島に行くならば、

源義経御一行様が、

大阪から船で徳島に上陸してからの

「軌跡」を辿ってみようかと、

色々調べてい行く内に、

その上陸地域とされる

徳島県小松島市の旗山には、

源義経の巨大な騎馬像があることを知り、

結果、

旅の二日目は騎馬像からの

スタートとなったのです。

八幡神社

「旗山」とは源氏の白旗が、

この山に掲げられた事に因むも名前で、

その旗が武士たちの気分を高揚させ、

平家追討への機運は

さらに盛り上がったようです。

旗山の300mほど手前に建つ、

元文二年(1737)

八月十五日寄進の鳥居。

旗山には、「八幡神社」が鎮座し、

この鳥居は昔の境内地が、

少なくともここまでは

あったという証でしょう。

鳥居をくぐってズームで撮影。

旗山の右側には騎馬像が見え、

白旗もなびいていますね!

ちなみに、

左端の白い建物は八幡神社の本殿です。

旗山の麓に到着。

旗山の前に広がるのどかな田園風景。

専用駐車場はないものの、

広い空きスペースに駐車し散策を開始。

「史跡旗山」の石碑。

右側には、

源義経騎馬像への近道階段と

その案内板が立っています。

「義経阿讃を征く」と書かれた石碑。

「阿」とは阿波国(徳島県)、

「讃」とは讃岐国(香川県)、

義経がここから屋島に

攻め上った軌跡という事ですね。

文章を抜粋すると

以下になります。

「嵐のなか 摂津渡辺の津から

海路二十五里 義経軍勢

中ノ湊の多奈に上陸 軍船勢合に集ふ

旗山に清浄と 正々の白旗ひるがへる」

これに続き、屋島の戦いまでが綴られ、

「今 旗山 山頂 英雄義経の銅像

威光 四方に耀かがよふ」

このように結ばれています。

文章の概略を地図で表すとこんな感じです。

赤の点線が

「摂津渡辺の津から海路二十五里」

ということですね。

小松島に上陸後は、青の点線を通り

平家の本拠地、屋島へと向かっています。

ここから登りますが、

まずはお手水へ。

水道が完備された手水舎。

このすぐ右には、

先代の手水鉢もあります。

江尾時代生まれっぽい感じですが、

こちらも水道水完備で、

先代とはいえバリバリの現役、

まだまだ若いもんには、

負けてませんね(笑)

石段下の杖とミニ賽銭箱。

足の状態によって、

杖を使って本殿まで登っても良し、

ここで賽銭を入れて参拝しても良し、

そんな選択肢を与えてくれる優しさと

治安の良さに思わずニッコリします。

もうすぐ本殿。

宝永二年(1705)

八月十五日寄進の燈籠。

先ほどの鳥居は32年後の

同じ八月十五日の寄進でしたが、

八月十五日はこの神社さんにとって

大祭など特別な日なのかも知れません。

それとも・・

第二次大戦終結の日を

予言していたのか?・・

ま、まさか!そんな!(笑)

対になる左側も同じ日の寄進です。

手水鉢も渋い!

武田薬品のロゴみたいな家紋(神紋)は、

「丸に一つ鱗」だと妻から教えて貰いました。

八幡神社に参拝。

白い御社殿、

なかなか素敵ですね!

左隣の王子神社にも参拝。

ここでの注目はこちら・・

慶応四年寄進の可愛らしい狛犬。

慶応四年と言えば、

戊辰戦争があった年ですね・・

香川県内の各藩は分裂し、

藩主が松平氏の高松藩は旧幕府側に、

藩主が京極氏の

丸亀藩・多度津藩は新政府側に付き、

鳥羽・伏見の戦いで負けた高松藩も

その後は、新政府側に恭順し、

旧幕府側と戦ったようで、

明治維新は本当に複雑です・・・

愛嬌たっぷりな吽形。

二つの御社殿を参拝後、

奥の源義経騎馬像へと向かいます。

(続く)

 

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