新潟縣護國神社(前編)

 

招魂社の名残り

新潟縣護國神社には、

明治元年に創建された当時の

招魂場(後の招魂社)から

150年以上続く

歴史の生き証人のような慰霊施設、

「戊辰役殉難者墓苑」があります。

ここには、招魂場時代からの長い間、

勝者側である新政府側(西軍)のみの

招魂碑・墓碑が建てられ、

遺骨も埋葬されていましたが、

昭和六十三年に、

ようやく旧幕府側(東軍)の

墓碑が建立されて、

両軍合わせての慰霊が

可能になっているようです。

そんな経緯もあって、

ここに佇むと

明治維新というのが、

日本人を敵味方に二分し、

その苦難を乗り越えて

成り立ったものだということを

改めて思い起こさせてくれます・・・

社頭

彌彦神社から新潟市に戻り、

午後2時過ぎ、新潟縣護國神社に到着。

有難いことに本参道の起点にも

駐車場があり、

僕たちはここに駐車しました。

強烈な西陽の境内入口。

御由緒や周辺案内などと共に

見つけたのがこちらの看板です。

この付近だったのですね・・・

以前訪問した、

鹿児島県の吹上浜にも同じような

告知がありました・・・

無事に戻って欲しいだとか、

他人事のようには言えませんが、

ただ、日本という国の

力の無さを感じてしまいます・・・

一の鳥居をくぐり参道へ。

曲線の参道。

戊辰役殉難者墓苑

参道を歩き始めて少しすると

左側に見えて来るのが、

戊辰役殉難者墓苑です。

入口。

「戊辰新潟戰爭」

以下、案内です。

「慶應四年(明治元年)正月

鳥羽伏見で戰が始まり薩長を主力とする

西軍は四月柏崎・小千谷を占領、

七月には長岡を攻略しました。

一方七月二十五日海路より松ヶ崎に上陸し、

二十九日までの五日間新潟の町は

戰場と化し、対する東軍

(米沢、会津、庄内)との間で

激戰が繰りひろげられ

多くの兵が戰死しました。

西軍戦死者の墓碑は明治八年

常盤ヶ丘に建立されて招魂社となり、

その後昭和二十年にこゝに移管されました。

昭和六十年に至り

旧新潟大学本部跡地(元招魂社跡)から

東軍のものと思われる

九十二体の遺骨が発見され

こゝに埋葬されております。

この度、二度目の戊辰にちなみ、

多くの方々の協力により

東軍の慰霊碑が建立されました。

こゝは東西両軍区別なく、

いづれも國に殉じた尊い御霊として

祭祀する霊苑であります。

異郷の地に果てた戰士よ

安らかにお眠り下さい。

昭和六十三年十一月五日

新潟県護國神社戊辰霊苑」

冒頭に書いた創建の経緯は、

この案内で知りました。

参道。

入口。

墓苑全景。

ここで目に入るのが、

真ん中のひときわ大きな燈籠です。

「明治元戊辰年十二月建」と刻まれ、

戊辰戦争の直後に建てられていますので、

元は「招魂場」にあったものが

ここに移設されたのでしょう。

高さを比較する為、妻登場。

場所柄、神妙な顔・・かな?

三基の石碑の背後と左右には、

多くの招魂碑・墓碑が並んでいます。

真ん中に建つ、

「戊辰 薩藩戦死者墓」碑。

薩摩(鹿児島)出身の首相、

松方正義の謹書で、

墓石下側には、

戦死した方々のお名前が

一人一人刻まれています。

薩藩戦死者墓の裏側。

「大正四年乙卯十一月

見附 押切 吉永 小千谷 浦佐

合葬

東京鍋島商店工作」

このように亡くなった場所も

明記されていますが、

名前の載らない、

敵だった新潟側の人々も

多く亡くなっているはずですね・・・

三基ある墓碑の右側、

案内に書かれていた

昭和六十三年建立の

「戊辰役 東軍 慰霊碑」。

この碑文は戊辰戦争で

お亡くなりになった

東軍の方々に向けての

語り口調で書かれていて、

長いですが、

心揺さぶられる名文なので、

書き出してみます。

「君 健男題辞

いまここに明治元年戊辰七月の

新潟戦争で戦死された

奥羽越同盟東軍の精霊に申し上げます

あれから星霜百二十年

われらの声は遠く微かにしか

お耳に届かぬかもしれませんが

どうそ静かに目をお覚しください

当時 新潟港は諸外国との開港場に指定され

戦略上もまた重要な拠点と

認識されていたために

新政府西軍は七月二十五日に

松ヶ崎太夫浜に上陸

同二十九日 新潟港をめぐって

展開された東西両軍の攻防戦において

皆様は帰らぬ人となり

わが国近代化の礎石として、

尊い命を捧げられたのでした

その後皆様は賊軍という

いわれなき汚名を蒙り遺体は放置され

永く山鴉野犬のついばみに任せられ

濤声に雪冤の悲歌を奏で

松籟に怨念の鬼哭を託して来られました

ここにわれらは新潟戦争後

二度目の戊辰にちなみ

遅きに過ぎた憾みを遺しつつも

この慰霊碑建立の運びに漕ぎつけました

新潟戦争殉難者の皆様

なにとぞきょうからは

昔の頑なな順逆論に煩わされることなく

この碑を羽ばたきの基点とされ

新潟の四季に目を楽しませ

ときには白鳥と化して

故郷の山河に天翔り

心ゆくまで平和の喜びを

お噛みしめください

それがわれら建碑発起人の

ささやかな願いでございます

昭和六十三年十一月五日

戊辰役東軍慰霊碑建立発起人会

網淵謙錠 撰文」

胸に突き刺さるというのか、

何も言えません・・・

皆様、

安らかにお過ごし下さい・・・

薩藩戦死者墓碑の左側、

「御親兵十津川隊

戊辰役戦没者招魂碑」。

奈良県から新潟戦争に参戦した

新政府軍(西軍)兵士の招魂碑です。

十津川隊の招魂碑の左側、

「大洲藩船殉難者慰霊」の碑。

藩所有の「いろは丸」を

海援隊の坂本龍馬に貸していた

大洲藩ですから

勿論、こちらも西軍ですね。

新発田藩兵士の墓碑。

戊辰戦争当初、

やむなく東軍に属した新発田藩ですが、

途中、西軍と合流し

東軍と戦っています。

慰霊碑に参拝。

慰霊碑の裏側には

この慰霊碑建立の経緯が

刻まれています。

「昭和六十年十一月二十三日

新潟大学医学部創立

七十五周年記念事業である

「有惟壬記念館」工事現場

(旧新潟大学本部跡地ー元招魂場跡地)から

発掘された戊辰の役戦死者の遺骨

四十六柱をここに埋葬し御霊を祀る」

お亡くなりになった方々が

呼ばれたのでしょうか・・・

改めて合掌・・

慰霊碑の背後は、

山口藩(長州藩)兵士の墓碑。

参拝後、

墓苑の隅で見つけたのが、

戊辰戦争から約80年後、

大東亜戦争戦死者の慰霊碑です。

「コヒマ戦没者之碑」(左)と

「ビルマ戦没者碑」(右)。

戦争末期、

日本軍占領地のビルマ(現ミャンマー)から

インドに攻め込むインパール作戦において

重要拠点だったインドの

「コヒマ」を一時占領する活躍をされた

新潟の部隊の慰霊碑かと思います。

この戦いでは、

本来補給が乏しい日本軍でも

さらに全く補給がなく

多くの餓死者を含み

悲惨な最後を遂げられた方も

多くいらっしゃいます。

そう言えば、僕の小学六年の担任は

ビルマで戦った人だったし、

お隣に住む人もそうでした・・・

改めて、合掌。

(続く)

 

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