西大野八幡神社(北九州市)
一社が二社に
先に参拝した東大野八幡神社と
ここ西大野八幡神社は、
元々「大野八幡神社」として
一つの神社でした。
それが、江戸時代初期の
寛文七年(1667)
東大野八幡神社が独立し、
二社に分かれています。
本殿前の案内。
まず目に入ってくるのが、
木の年輪が、
美しい浮き彫りになった「板」です。
じっと見ていると、
なんか龍安寺の石庭にも
見えてくるような・・・
勿論、内容自体も
神社の歴史が箇条書きに記され、
とっても読みやすく、
僕でも簡単に頭に入ってきます。
内容を抜粋・要約すると
以下になります。
「御祭神は応神天皇、神功皇后、
宗像三女神。
天智天皇五年(666)
高津尾村の山上に鎮座。
天喜三年(1055)
山本村に遷座し沼田の宮と称す。
享禄五年(1532)
大友氏の兵火で宮殿を焼失。
天文五年(1536)
大内氏が社殿を再建。
後、大野八幡神社として
東西大野郷十六ヶ村の産土神となる。
寛文七年(1667)
東大野八幡神社が独立し
母原花枝山へ遷る。
寛文八年(1668)
現社地へ遷り西大野八幡神社と称する。」
大野八幡神社が東西に分かれた理由は、
東大野八幡神社の御由緒にも
こちらにも書かれてはいません。
「大人の事情」があったのでしょうが、
僕からすると、
個性豊かな神社を二つも楽しめ、
有り難く参拝させていただけた事に、
感謝するのみです。
御社殿へ
東大野八幡神社から車で10分、
西大野八幡神社に到着です。
鎮座するのは、この山の麓。
社頭。
鳥居の神額の文字は
「大野八幡宮」。
ということは、
二社に分かれる前、
寛文七年以前の神額かも知れません。
手ぬぐいが設置された手水舎。
日常を感じさせてくれる
この「当たり前」の光景に
何だかホッとします。
清浄な水が湛えられ、
柄杓でのお手水も日常感満載で、
実に落ち着きます。
拝殿へ。
参拝しようとした時見つけたのが、
こんな案内です。
「ようこそ
西大野八幡神社へ
ご参拝は、より神様に近い、
奥の幣殿前にてお願いします。
ご利益も大きかろうかと存じます。
宮司」
いや~これはたまらんでずね!
宮司さんの優しさとご配慮、
有り難い限りです。
奥に見えるのが幣殿ですが、
その前に見どころ満載な拝殿を
もう少し楽しんでから
神様の近くで、
お参りさせていただきます。
ピーンと一直線に伸びたしめ縄。
あまりにもカッコいいので、
つい見入ってしまいます。
そして、次なる一直線がこちらです。
プロペラ!
プロペラの御由緒。
「東風号のプロペラ」
「大正14年 道原出身の
朝日新聞社航空部員
河内一彦氏が操縦し
僚機「初風号」と共に
訪欧飛行の大壮挙を成し遂げた
「東風号」のプロペラで
同氏無事帰国後
神恩を感謝し故郷の氏神様に
愛機のプロペラを奉納して
奉賽の誠を捧げたものである」
このように書かれています。
当時の写真と、ルートなどの案内。
少し抜粋・要約すると
「朝日新聞社は、
大正9年に初めて日本を訪れた
イタリアの訪日機に対する
答礼飛行を計画。
フランス製の飛行機を使い、
大正14年7月25日、
東京の代々木練兵所を飛び立ち、
大阪の城東練兵所、
福岡の大刀洗、平壌、ハルピン、
チタ、イルクーツク等シベリアを経て
モスクワに到着。
そして、ベルリン、パリ、
ロンドン、ブリュッセル等の
各都市を表敬訪問し、
ほぼ4ヶ月後の10月21日に、
最終目的地であるローマに到着。
11月28日マルセイユより船により
解体された機体と共に帰国。
プロペラは二翅あり、もう一翅は、
河内一彦氏の母校、
道原小学校に保管されている。」
このようになります。
第一次世界大戦が終わってから
7年後の欧州訪問、
河内さんの目には
どんな光景が入って来たのでしょう。
昨年(令和3年)公演された
「空翔ける虎」の
劇団のポスター。
こんな凄い事を成し遂げた方が
身近にいたことを知る事が出来、
そして、
歴史が詰まったプロペラを
拝見出来た事だけで、
もはや西大野八幡神社の
ご利益をいただけたも同然ですね(笑)
幣殿前にて参拝。
振り返って拝殿の空間から
神様目線で(笑)鳥居方面を撮影。
右から拝殿、幣殿、本殿。
本殿に参拝。
見事な組物や彫刻に
感激してしまいます!
これは凄い!
色んな角度から撮影。
本殿右から。
左後方少し上から。
ここで、珍しい懸魚を発見。
「メデタイ懸魚」(笑)とでもいうのか、
タイが対になっています。
いつ、誰が建てた本殿なのかは
わかりませんが、
この本殿を見られただけでも
ご利益は満載、
先程のプロペラと共に、
ご利益、二倍いただきました!
境内社
次に境内社へ。
本殿左側の境内社。
(御祭神は不明)
屋敷疫神社へ。
参拝。
拝殿前でツーショット。
これにて西大野八幡神社の
参拝は完了です。
今日の文化財
こちらは拝殿下にある
文化財の案内です。
「銅製鰐口」
写真ですが、
損傷や劣化もなく、
超美品といった感じです。
説明をかいつまんで書くと
「直径35cm、厚さ15cm、
重さ19.6Kgの青銅製で、
撞座の外周に
明和21年(1765)に
7ヶ村の氏子が、
西大野八幡神社に
奉納したことが刻まれています。
作柄は優秀で、
小倉で鋳造されたものとしては
慈済寺の銅製鰐口とともに数少ない
優れた工芸品です。」
「銘文中の「七箇村」とは、
山本、高津尾、合馬、田代、
春吉、道原、頂吉の各村です。」
このようになります。
合馬とは「たけのこ」で有名な
あの合馬の事でしょうか?
どうしても、すぐ食べる事ばかりが
思う浮かんでしまう僕でした(笑)