大久保石見守墓所(石見銀山)
光と影
石見銀山はじめ佐渡金山など、
多くの鉱山開発で、
徳川幕府に莫大な利益をもたらした
大久保石見守長安。
その羽振りの良さは、
筆舌に尽くし難いほどだったようです。
しかし、
大久保さんが亡くなった直後、
不正蓄財などの罪により
嫡男はじめ一族の多くは、
切腹となり領地は没収、
大久保家は断絶しています。
妬みで讒言された可能性は
大いにあるし、
実際の大久保さんの生き様が、
どうだったのかは不明ですが、
光と影、
実に分かりやすい事例と言えます。
また、
大久保さんほどではなくても
土佐藩(高知県)で治水の神様といわれ、
現代に繋がる多くの功績を残した
野中兼山も同じように不遇な末路を
辿っている事を考えると、
どんなに大活躍しても
「目立たず、慎ましく、
妬みを買わないように生きること」
「表だった実績は、
持てる力の半分位に抑えておくこと」
これが肝要なのかと思ってしまいます。
でも、
自分に高い能力があり、
周囲におだてる人ばかりいたら
そんな事は難しいのかな?(笑)
大安寺跡
龍源寺間歩から散策路を
大森町方面へ戻ると
右側に大安寺跡への
参道入り口が見えてきます。
「大久保」の名前が刻まれた石柱。
かなり風化していますので、
下半分は見えません。
江戸時代に建立されたものかも・・
銀山川に架かる橋。
「大安寺跡」
案内を抜粋すると以下になります。
「浄土宗鎮西派のお寺です。
大久保石見守長安の菩提寺として
慶長10年(1605)に
建立されたと伝えられています。
境内地の墓石は115基あり、
寺の創建年と一致するものもあります。
その後、
建物は明治8年(1875)に再建され、
昭和18年(1943)の水害で大破し、
極楽寺に合併しました。
境内の大久保石見守墓は、
寛政6年(1794)に
長安の功績を讃える
隣の石碑と共に再建されたものです。
それ以前の墓は近くで破片になっている
大型の宝篋印塔と推定され、
復元すると高さはおよそ2mとなります。」
やはりお家断絶もあって、
徳川幕府にはばかり、
立派な宝篋印塔も
打ち捨てられたのかも知れません・・・
大安寺の寺号表。
エントランス。
墓石や石仏などが見え、
廃寺っぽい雰囲気が満載です。
墓所
少し行くと石段が見えてきます。
墓所へ。
「大久保石見守墓所」
大久保さんが、
武田の家臣だったことや
徳川家康に重用され、
石見銀山などの採掘で大活躍し、
その死後、
大久保家が断絶したこと、
お墓の歴史などが書かれています。
ここからお参りへ。
文久二年(1862)寄進の燈籠。
寛政6年(1794)に建てられた
お墓(右の五輪塔)と功績を讃える石碑。
これを建てたのは、37代の代官、
菅谷弥五郎長昌という方です。
大罪人とされていた大久保さんの
お墓や石碑を建てることは、
下手すると切腹もの・・・
相当な覚悟が必要だったと推察しますが、
やはり「先人の功績を顕彰する」ことは、
銀山の発展にも繋がると考えての
英断だったのでしょう。
菅谷弥五郎長昌さん、
石見銀山に赴任する前、
倉敷代官時代にも
民衆に慕われる逸話を残していますので、
相当有能な人には違いありません。
斜めから撮影。
参拝。
これにて大久保さんの
お墓参りは完了です。