2017/12/31
大野城の旅(福岡県)
白村江の戦いがもたらした大野城
灯台下暗しと言うか、僕がお城を巡り始めて
地元福岡には素晴らしいお城が
あることに気づきました。
実を言うと「大野城」というのが
「お城」だったことを僕が知ったのも
今年(2017年)に
なってからなのです(汗)
何回か書きましたが、
たまたま出会ったお城巡りを記録するサイト
「攻城団」の会員になってからのことです。
大野城市にあるから大野城なのかと思ったら
大野城市、太宰府市、宇美町にまたがる
広大なお城でした。
大野城へ
1300年ほど前に大和朝廷によって
大野城が造られたきかっけは、
教科書でも有名な白村江
(はくすきのえ)の戦いで
倭(日本)が唐と新羅の連合軍に
大敗したことです。
大敗後、唐と新羅が
攻めて来るかもしれないので、
日本は国土防衛を急ピッチで進めました。
その防衛施設の一つが
「大野城」だったのです。
白村江の戦いに負けたから、
現代の僕たちは
こんなに凄い遺跡を
楽しむことが出来るんですね!
僕が学生だった40年以上前の教科書には
「白村江の戦い後」については
そんなに詳しく書かれていなかった
気がしますが、
白村江の戦いで大敗したことがきっかけで、
西日本の各地に
この大野城のような「城(古代城)」が
出来、日本書紀のような書物も発刊され、
日本の文化や建築技術が
花開いた時期となったのです。
朝鮮半島の南部を支配し、
その後白村江の戦いに負け、
朝鮮半島からは完全撤退し
負けた中から活路を見出して
繁栄するところは
大東亜戦争(太平洋戦争)で負け
全ての植民地を失くした後、
高度経済成長に至り
大きく繁栄した
戦後の日本と重なる部分もあるな〜
なんて思います。
大きな不幸を大きな幸せに変えてしまうのは
日本のお家芸なのでしょうか?
お家芸と言えばスポーツでも同じですよね。
日本人が勝てば、
ルールが外国人有利に変わる…
でもそのルールを習得して
さらに勝つのが日本人(笑)
相変わらず前置きが長くなりましたが、
大野城に行ったお話のはじまりです(笑)
「百閒石垣」(ひゃっけんいしがき)
というのが有名で、
凄いという情報を攻城団で知っていた僕は
まずはその百閒石垣を目指しました。
下の写真はこのあと行った
「県民の森センター」の大野城の図です。
驚くべき広大な敷地の大野城は、
遺跡も盛りだくさんで、
一日では到底回りきれないほどの
数なんです。
百閒石垣はこの図の右上あたりにあります。
そして、百閒石垣にあった
案内図の一部抜粋です。
百閒石垣は上の「現在地」です。
これを見ても見所が多過ぎて
どうやって巡ればいいのか
迷ってしまいます。
大野城と百閒石垣についての案内。
百閒石垣に向かって左側からの遠景。
清流が気持ちよくて素晴らしい眺めです。
左側のアップ写真。
これが1300年間も残っているのが
凄いですね!
向かって右側の遠景。
向かって右側、近づいて撮影。
石垣の形がカッコいいです。
石垣のドアップ。迫力満点ですね。
そして、もう一枚ドアップ!
妻と赤トンボ。
書きましたように
妻のおばあちゃんは赤トンボや蝶になって
表れるという伝説があります(笑)
その伝説の赤トンボが
近くに止まって動かなかったので、
ツーショットを撮りました!
ツーショットついでに僕たちも
百閒石垣をバックに撮影。
石垣の凄さに感動しながら
駐車場がある宇美町の
「県民の森センター」に到着。
ここが本格的な大野城散策の
拠点になります。
ここには資料館などの施設も整っていて、
まさに「センター」にふさわしい
素晴らしい施設なのです。
冒頭にも言いましたように
どこから散策すれば良いか
迷うくらいに遺跡が多いので、
いくつかの石垣や礎石を
回って見る事にしました。
「子供の国」と名付けられた
広場の向こうに遺跡があるようなので
行ってみました。
広過ぎてどこから山に入ればいいか
迷っていたところこんな案内板が。
「猫坂礎石」
なんか、ニャンコの顔を思い出すような
名前の場所だな〜
なんて思いながらこの草むらを入ると
すぐ「カラスアゲハ」に遭遇!
鮮やかなブルーグリーンに輝く翅(はね)が
とっても綺麗で素敵だ〜!
かなり近づいても悠然としていたので、
撮影に成功。
「おばあちゃんが蝶になって
こっちに導いてくれたんだね!」
と妻と二人で喜び合いました。
ここがニャンコ礎石、いや猫坂礎石。
いや〜古代にタイムスリップしたような
雰囲気で
自然に残る素晴らしい礎石です。
この上に倉庫などが建っていたそうですが
今でも建てられそうですね!
ニャンコ(笑)を見たあとまた散策を再開。
大野城はこのような道案内が
随所にあるので、とても親切な遺跡です。
下の写真は散策途中で時々出会う石仏。
宇美町の観光情報によると、
ここには大野城跡の土塁線上を中心に
四王寺三十三カ所石仏というものがあり、
1800年ごろ四王寺の僧と
博多の発起人が四国三十三カ所霊場の
「霊土」を集めて建立されたそうです。
公設の案内板とは別に
所々にある手作りの案内板。
黄色に黒と赤という
とても分かりやすい配色で、
この案内板も親切で助かりました!
次に見学したのが増長天礎石。
修復中で、
白いカバーがかけられている所が多く
実際の礎石は見られませんが、
一部カバーのないところがありまひた。
ここはニャンコ礎石とは違い、
コンクリで固められていましたので、
古のままの雰囲気は
味わうことが出来ません。
僕はやっぱりニャンコ礎石がいいかな(笑)
増長天礎石群の次は大石垣に行きます。
案内板によると、
平成15年の豪雨災害で
壊滅的な被害が出て、
それを修復したもが今の大石垣だそうです。
そしてその災害をきっかけに
詳しい調査が出来、
建築当初の石垣だけでなく
その後何度も修理をした
新しい石の形跡などが
見つかったことが記されていました。
災害は大変なことだったでしょうが、
大野城を知る上では
良かったのかも知れませんね。
こちらが大石垣です。
大石垣から山を登って
「県民の森センター」に戻り、
そこから車で移動。
太宰府方面に向かって少し行くと
左手に駐車場があったので、
そこに車を停めて歩いて行くと、
こんな絶景が!
この景色に見とれていたら妻が、
「下に行ってみよう」
と言ったので、行ってみました。
すると鳥居があり
その手前にはこんな表示が。
「太宰府口城門」
お〜地図に載っていたあの門か〜!
ここにあったんだ〜!
ワクワクしながら進んでいくと、
ありました。
案内板によると、
かなり立派な門があったようです。
ここが一番の要の門だったのでしょうね。
両脇が石垣になっていて、
真ん中に礎石があり
その上に門があったそうです。
もっとも建て替えられた形跡がある
ということで、
初期のものは礎石無しの門で
規模は後からのものより
大きかったようです。
門の左側の石垣がしっかりと
残っていてかなり興奮しました。
門の礎石も当時の姿のままです。
素晴らしい門の前で
素晴らしいツーショット(笑)
門に感動した僕たちが
最後に行った場所は
「焼米ヶ原」(やきごめがはら)
何でこの名前が付いたかというと
下の写真をご覧ください。
写真入りで分かりやすい説明です。
小学生の皆さんも頑張っていますね!
原っぱが気持ち良い〜!
妻のおばちゃんが大好きだった
藤棚もあったので、思わず撮影。
ここから少し歩いたところに
展望所があるので、行ってみました。
素晴らしい眺望です!
左手前には九州国立博物館、
真ん中に太宰府市の町、
遠くには発心城がある耳納連山
(みのうれんざん)も見えていて
爽快な気分を満喫しました。
展望所から戻り、最後に近くの礎石を散策。
僕たち以外に人はいなくて、
静かに見学が完了。
古代ロマンがあふれる
素晴らしい遺構が盛りだくさんの大野城、
5時間かけて散策しても
行けなかったところの方が多過ぎです(笑)
今日の癒し
焼米ヶ原から展望場所に行く途中、
ベンチに置いてあった葉っぱ。
何気なくベンチの上を見ると葉っぱが三枚。
何だ〜これは!!
葉っぱで作った、
笑顔、普通の顔、怒った顔。
この表情、めっちゃ癒されますね〜
もはや葉っぱを超えて生命体ですよ!
いや〜こんなものに遭遇するなんて、
超ラッキーな僕たちです。
そして、僕たちが数分後、展望場所から
またここを通って帰るときには
この生命体たちは
いずこえか消えていました…
僕たちだけに
姿を見せたかったのでしょうか?
そして、それもまた僕たち二人の間では
この不思議な体験を
さらに伝説化するエピソードとして
語り継がれる要因になったのです!
旅の最後をこんな素晴らしい
サプライズで飾れる僕たちは
ついてますね!本当に幸せだ〜〜(笑)