雄島(宮城県松島町)頼賢の碑

 

クラウドファンディング

僕たちが雄島を訪問した時、

島内各所において、

リニューアル工事が行われていました。

その一つが、

島の頂上付近に建つ「座禅堂」です。

雄島を管轄する(多分)

瑞巌寺のサイトを確認すると

この座禅堂のリニューアル、

クラウドファンディングで集まった

資金での工事だったのです。

歴史ある雄島が現代の知恵で蘇る・・

これを雄島で修行した

古の僧侶たちが知ったら

きっと大いに喜ばれることでしょう。

座禅堂

雄島の守護神とも言える

真珠稲荷大明神を参拝後、

島内最南端の頼賢らいけんの碑を目指します。

頼賢の碑は雄島の南端、

この地図の右端になります。

通りすがりの霊場に参拝。

お地蔵様や石仏に参拝。

少し行くと冒頭に書いた

座禅堂が見えてきます。

(座禅堂の覆が見えてる・・笑)

工事していても

立ち入れるところまでは、

とにかく行ってみるのが僕たち流(笑)

お〜確かに工事中だ〜!(笑)

仏様はいないかも知れませんが、

遥拝して石段を戻ります。

頼賢の碑

そしてさらに南へ。

整備された歩道。

程なくして頼賢の碑に到着。

「奥州御島頼賢碑」

案内を抜粋すると

以下になります。

「この石碑は、鎌倉時代末期にあたる

徳治2年(1307)、

松島・雄島の妙覚庵の主であった

頼賢の徳行を後世に伝えるため、

頼賢の弟子たちが造立したものです。

頼賢は22年間島で修行を続けたことから、

同じくこの地で長きにわたって

修行を積んだ平安時代の高僧、

見仏の再来と讃えられました。

高さ3メートル以上ある板状の粘板岩で、

碑の周辺には雷紋・唐草文が配され、

上下の区画の間に陽刻された

双龍を確認することができます。

石碑の上欄中央には

胎蔵界大日如来種子(阿)が刻まれ、

その右側に「奥州御島」、

左側に「頼賢」の文字を

見つけることができます。

下欄には、

中国元朝の渡来僧・一山一寧

(1247〜1317)による撰と書が

草書体で刻まれています。

また、石碑を保護する鞘堂は、

近代建てられたのものです。」

鞘堂。

頼賢の碑。

700年以上前の石碑ですが、

一山一寧の書は、

かなり風化はしているものの、

上部には、案内通りの文字が

しっかり確認できます。

四阿(あずまや)

頼賢の碑のすぐ横は、

雄島南端の四阿がありますが、

こちらも訪問時は工事中でした。

「四阿をなおしています」の案内。

実はこの先から鯨岩、亀岩という

二つの岩が見えるはずですが、

工事中なので先へは行けず。

それでも諦めきれず

撮影してみるものの

やはり無理(汗)

別角度でズームで挑戦。

左のクジラっぽいシルエットは

わかるような?

少し北側から撮影。

さらにズームでも撮影。

ここまでして

鯨と亀が見たかったのか?

・・僕は(笑)

芭蕉と曽良の句碑

次にさらに北に向かい、

座禅堂の下、

島の真ん中あたりの芭蕉の句碑へ。

ここから海側へ下ります。

途中のお地蔵様にご挨拶。

芭蕉句碑前の海は透明感抜群です。

芭蕉と曽良の句碑(真ん中の二つ)。

左が芭蕉。

「朝よさを誰まつ しまぞ片心」

右が曽良。

「松島や 鶴に身を かれほととぎす」

芭蕉句碑の左側面。

延享四年(1747)の

建立であるのがわかります。

元禄二年、芭蕉が松島を訪問してから、

60年近くでの建立です。

当時から芭蕉さんの人気は

高かったのでしょう・・・

右側面には

「勢州」の文字の下に

人名らしきものが刻まれています。

勢州とは伊勢の国のこと。

伊賀生まれの芭蕉と同じく

(現在で言う)三重県の人が

故郷のヒーロー芭蕉を崇敬して

建てたのかも知れませんね。

(続く)

 

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