輪王寺・逍遙園(日光市)
輪王寺を先に完結
輪王寺の一番奥に位置する
徳川家光の廟所、大猷院は、
日光二荒山神社のすぐお隣。
従って、大猷院へのお参り後は、
流れ的に神社を先に参拝し、
その後、
輪王寺のエントランス近くに戻り
宝物殿と逍遙園を巡ったのですが、
時系列的には前後するものの
ここまで長々と書いてきた(笑)
輪王寺を先に完結させる事としました。
黒門
二荒山神社参拝後、
東照宮沿いに歩き、
寺社共有の参道へ。
参道。
輪王寺の黒門に到着。
門内へ。
「黒門」
以下、案内です。
「黒門は、日光山総本坊であった
「光明院」の正門です。
光明院は、江戸時代、
日光山を中興した「天海」大僧正が
日光山全体の総本坊(本部)として
再興したお寺です。
その当時、東照宮を含む日光全山は、
皇族出身の僧侶
「輪王寺宮法親王」によって治められ、
さらに江戸時代を通じて
輪王寺宮が比叡山と東叡山(上野)を
併せた三山を管領することとなります。
光明院は延べ床面積約2,600坪
(8,700㎡)の大書院でしたが、
神仏分離の混乱の際、
明治4年(1871)5月13日の
火災により大半が失われました。
その際、この「黒門」は境内北側にある
「護法天堂」とともに焼失を免れたため、
光明院の往時を偲ぶ
貴重な建物となっています。」
やはり神仏判然令による
廃仏毀釈の嵐は、
ここでも
吹き荒れていたのでしょう・・
でも、
黒門だけでも残って良かった!
内側から見学。
宝物殿
次なる目的は宝物殿。
黒門を背にして、宝物殿へ。
案内によると
「宝物殿には、
日光山の1250年にわたる
約3万点の什宝が蔵され、
常時50点以上の寺宝が
展示されています。」
このように書かれています。
僕たちも入ったのですが、
写真撮影は禁止なので、
正直、記憶が・・・(汗)
しかし、
ここでは大きな発見もありました。
神仏分離後の
日光東照宮の陽明門からは
仏的な造形物である
風神・雷神像は撤去されています。
その貴重な像が宝物殿で
公開されていたのですが、
この二体、
大猷院の二天門に配置された
風神・雷神像にそっくりなのです。
二天門の風神像。
二天門の雷神像。
あまりにも似ていてビックリ!
二天門は陽明門と同じく、
境内入って仁王門に続く
2番目に位置する門だし、
家光さんは、
おじいちゃんの東照宮と
同じデザインの風神・雷神像を
望んでいたのかも知れませんね。
(勝手な妄想ですが・・)
逍遙園
宝物殿から外に出て、逍遙園へ。
逍遙園には正面入り口からは入れず、
宝物殿に入った人だけの特権です(笑)
「逍遙園」
案内を抜粋すると
以下になります。
「江戸時代初期、大名であり茶人、
建築家、作庭家、書家でもあった
小堀遠州(1579〜1647)の
作庭と伝わる日本庭園です。
日光山の山主として
「輪王寺宮法親王」という
皇族出身の僧侶を迎える際に
造営されたと伝えられます。
園内には近江八景の
琵琶湖を模したといわれる大池を中心に、
シャクナゲ、サツキ、カエデなどが
数多く植えられ、
四季を通じて楽しめる
池泉回遊式の庭園となっています。
園の名は、江戸中期の儒学者
佐藤一斎が「逍遙園記」で
「この庭にただずみ、
そぞろ歩く(逍遙する)ことは、
まさしく禅の心そのものである」と
評したところから
逍遙園と名付けられました。」
いや〜
ここも小堀遠州さんですか!
二条城の二の丸庭園はじめ、
数多くの庭園に名を残していますし、
茶の湯でも「遠州流」として
現在も続くなど
一芸に秀でた人は、
いくつもの芸にも秀でているという
お手本の様な人です。
ここから散策スタート。
苔がめっちゃいい感じ。
回遊路の案内に従い左回りで散策。
琵琶湖を模した・・・
そう言われてばそんな気が・・・
雲の中から錦鯉登場(笑)
緑に癒される〜!
だんだんと
同じ様な景色に見えてきた?(汗)
ここまでで逍遙園の散策は完了です。