平田靱負屋敷跡(鹿児島市)
命を賭し使命を果たす
平田靱負(ひらたゆきえ)は、
江戸中期、薩摩藩の家老だった人。
平和な時代、何事もなければ、
平穏な人生を全う出来たはずでしょう。
しかし、宿命(運命)は、
そうさせませんでした。
薩摩藩に、
幕府から薩摩に命じられたのは、
美濃国(岐阜県)を流れる、
木曽川、長良川、揖斐川が
合流する水害が絶えない
難所の治水工事。
その総奉行に抜擢されたのが、
平田靱負です。
国家予算なんて無いころ、
幕府に命じられた工事の
費用や人の手配は、
基本請け負う藩が全て自前です。
要するに「石高」というのは、
コミコミで貰っている
外注費みたいなものだったというのは
言い過ぎかも知れませんが、
江戸時代とはそんな時代だったのです。
多額の借金をし、
多くの犠牲者を出しながらも、
平田靱負率いる
薩摩藩士達は頑張りました・・・
Wikipediaによると
「薩摩藩は最終的に病死33名、
自殺者52名という多大な
殉職者を出している。」
このように書かれ、
その工事完成を報告した翌日、
多くの犠牲者を出した責任をとり
平田靱負も切腹しています。
病死説もありますが、
幕府による
薩摩藩いじめ?のような工事で、
幕府に抗議するかのような「切腹」は、
公に出せない事情があった頃ですから
僕は切腹が正しい気がします。
その平田靱負の像が建つ「平田公園」は、
平田靱負の屋敷跡で、
いつか行くであろう、
平田靱負を祭った岐阜県の
治水神社に参拝する前の、
事前情報収集も兼ねての訪問です。
平田公園へ
平田公園は、
鹿児島中央駅から車で数分。
平田靱負屋敷跡の案内。
公園の中へ。
平田靱負の像
公園に入ると、
広場を挟んで
正面に見えて来たのが、
平田靱負の像です。
遠景。
像の前の広場では、
毎年、5月25日、
薩摩義士頌徳慰霊祭が
催されるそうです。
まるで、軍勢を率いる
武将のようですね!
いや、家老ですから
武将なのは間違いありませんが、
治水工事は、戦(いくさ)と
同じようなものだったのでしょう。
「美濃、伊勢、尾張300ヶ村の救世主」
と題された治水工事の紹介。
冒頭で書いた内容が、
ここに書かれています。
木曽川治水千本松原絵巻。
「工事の完成直後、薩摩藩士が
涙とともに植えた日向松です」
案内にはこのように書かれています。
令和の今でも残る千本松原、
この目で見てみたいものですね。
再び視線を銅像へ。
ドアップ。
後ろ姿も躍動感満載。
こちらは、平田靱負が立つ
台座の裏側に刻まれている
亡くなった薩摩義士たちの名前。
銅像の後ろには、
川の流れが再現されていて、
治水工事で亡くなった人の
鎮魂にもなっているように思えます。
銅像横の平田靱負辞世の句。
「住みなれし里も今さら名残にて、
立ちぞわずらふ美濃の大牧」
裏側には、
「姉妹盟約都市三十五周年記念碑」
と書かれ、
鹿児島県と岐阜県との関係を
宝暦の治水からが説明されています。
最後に、
「石碑は揖斐川、
礎石は木曽川の上流にあり
歴史に埋もれ、
木曽三川の流れに洗われた石。
その流れに命をかけた、
薩摩義士の故郷に帰るのもまた運命か。
時の流れに数々の想いが胸をうつ」
確かに胸をうたれます・・・
最後は、
平田靱負ポーズの妻とツーショット。
今日の読み方
公園の裏口にあった石柱。
新納殿小路と書いて、
「にろどんしゅっ」と読みます。
鹿児島弁?やはり難しいな~(笑)