龍源寺間歩(石見銀山)後編

 

石見銀山を楽しむには

石見銀山の龍源寺間歩は、

入場料さえ払えば

自由に散策ができます。

自由なので、

誰もかまってくれません(笑)

また、

音声案内などの設備もありませんので、

個人で巡ると、

「坑道を歩いたな・・・」

こんな薄い印象になるかも知れません。

僕たちは、

運よくガイドさんとの出会いがあり

逐一ガイドさんに説明してもらったお陰で、

実に濃い体験となったのです。

石見銀山公園駐車場からの往復約5Kmを

歩く体力と気力があるならば、

ガイドさんを頼んだ方が、

石見銀山全体を

何倍も楽しめると思います。

江戸時代の坑道

前編から引き続き

龍源寺間歩の散策です。

「ひおい坑」

パンフレトには、

「岩石の隙間に

板のように固まっている

鉱物の層(鉱脈)を追って

掘り進んだ小さな坑道」と

書かれていて、

その坑道手前には

鉱脈が残っています。

ガイドさんに鉱脈の案内を聞く

ガイドツアー御一行様(笑)

これが鉱脈。

(ガイドさん談)

こちらも同じく鉱脈。

これをガイドさん無しに

素人が見つけることは

まず不可能でしょう(笑)

旧坑道の突き当たり。

ここでガイドさんから

「この先が江戸時代のままの坑道です。

狭いので、

お一人づつ覗いてみてください」

そう言われて、興味は倍増!(笑)

案内。

「ここは、

入口から約160m地点です。

坑道は、

左にカーブしながら195m地点で

落盤のためふさがっています。

ここから奥は、

高さ約2m幅約90cmで

大人がやっと通れる大きさです。

江戸時代に掘られたものです。」

柵の少し手前から撮影。

確かに細い・・・。

柵ギリギリから撮影。

江戸時代、ほぼ明かりもない中、

ここで働いた人の姿を想像し、

さらなる感動が!

新坑道

平成になって造られた新坑道は、

龍源寺間歩を一方通行で完結して

見学できるように考えられた道です。

新坑道へ。

ガイドさんと、

一緒に巡った関西女子3人組は

かなり先に行っています(笑)

折りたたみの椅子。

なんと優しいことでしょう!

疲れた人は、

ここで一休み出来るんですから。

これが新坑道の見どころ、

「坑道博物館」です(勝手に命名)

案内には、

「この電照板は島根県指定文化財(古文書)

「石見銀山絵巻二巻」のうち

上巻から坑道内作業の様子を

15枚の電照板に仕立てたものです。

絵巻は江戸時代の後期に描かれたもので

当時の銀山山内の様子や風俗を知る上で

大変貴重な巻き物です。」

このように書かれています。

ここからはその15枚を

じっくりと見ていきます。

(見学時は時間がなく、

撮影に徹しただけでしたが・・笑)

「四つ留之図」

「坑道のことを

山言葉で「間歩」とか

「敷」とか「山」とか言った。

堀子大工(鉱夫)たちは

鉉(鉱脈)を目当てに

坑道を掘り進むのである。

坑道の入り口を「四つ留」といい、

丸太の木を組んで

土石の落ちるのを避けて

安全な入口をつくった。

石見銀山では縦約1.8m、

横幅1.5mの間歩入口に

直径90cm位の栗の丸太で

四本柱を組んで四つ留とした。」

「四つ留役所之図」

「四つ留役所が坑口に置かれたのは、

御直山(代官所直営の五ヶ山)の入口で

山方掛の役人三人、

同心一人、山附などの役人が詰めていて

坑内の監督や見張りを行なっていた。

また銀掘人夫たちが鋪内(間歩の中)へ

出入りするのを届けたり、

鏈(銀鉱石)改め(計量)のために

この役所へ出入りした。

役所は四つ留の左右に設けられ、

間歩入口に向かって右側が役人詰所で、

左側には鏈置場があったようである。

江戸時代中期以後のいわゆる

「五ヶ山」

(永久、大久保、龍源寺、新切、新横相)

と呼ばれる間歩の前には

四つ留役所が設けられ昼夜厳重に

出入りを取締っていた。」

「御代官様銀山御見廻之図」

「御代官の代官所直営の五ヶ山の

御用見廻りは

年数回行われていたようだ。

御用見廻りは銀山附役人四・五人と

供廻りの御仲間を二・三人連れての

馬での巡見であった。

御代官廻りの時には鏈上り

(鉱石の採れ高)の状況や

坑内の様子などを

四つ留役所の役人から

事情説明を受ける習わしであった。」

「四つ留役所前柄山捨場」

(川岸に而男女拾ものをいたし候図)

「山言葉で捨石のことを「柄山」といい、

捨石(銀の含有が少ない石)を

坑内から運び出す人夫のことを

「柄山負」というが、

この捨石を捨てる場所を

「柄山捨場」と呼んでいたようだ。

この柄山捨場に良質の

鏈(鉱石)が混じっているところから

山内の女や童(子供)非番の人夫たちが

鏈拾い(鉱石拾い)をするようになった。」

「鋪内之図」

「間歩坑内の図である。

図の右側から柄山(捨て石)を

荷負(背負う)って歩く

人夫(柄山負い)の姿や

雁木と言う丸太梯子を用いたり、

「打替」といって左右の横木を渡して

踏台として歩いている姿が描かれている。

つまり鉱石の運搬や坑内の支木の

替え木や留木を持ち運んでいる図である。」

「片立木留之図」

(横穴留山の片側土の所へ

立木を建てて横木を渡す図)

A 押木留之図

天井の土砂を留めるため木材で被う図。

B 堀子共鏈堀図

堀子人夫たちが鏈(鉱石)を

ノミで掘っているところ。

C 坑内の溜り水を水箱に

段々と竹ポンプで吸い上げる作業の図。

「留山師両立木留いたす図」

(堀子大工が立木で中程の横穴に

支柱を設えているところ)

A 石留之図

石を掘り抜いて

トンネル状の坑道を設えるところ。

水屓上ル図

水汲みの図

□鋪内之図

坑道の内部

「大水鋪角樋二而水引揚ル図」

「坑内の湧水を木製の

角樋(木製ポンプ)を使って

段々上に引揚げて疏水坑へ

流し出している作業図」

「唐箕風箱之図」

「江戸時代中頃から唐箕を改良して

坑外の風を坑内に昼夜送る作業を行った。」

「留木拵之図」

坑口前の広場では坑内の

支柱を拵える仕事を行なった。」

「四つ留役所二而御入用払之図」

「堀子大工たちが当日のノルマを

四つ留役所へ背負い込んでその賃金を

もらいうけているところ。

役所内には組頭や掛(係)や山附など

銀山方の役人に山組頭、

小屋頭などの銀山町方、

番所方掛役人の姿も見られる。」

「鉱石を掘る」

「堀子は鑽を鋏で固定し、

槌でたたき鉱石を掘る。

暗闇・油煙・石塵の中で

たいへんな労働であった。」

「鉱石を運ぶ」

「堀子が鉱石を

かますに入れて背負い運ぶ。

せまい坑道の中を

さざえの殻のランプの明かりだけが

たよりだった。」

「坑木を組む」

「落盤防止のための

坑木を組むのが留山師の仕事。

坑道内が崩れるのを防ぐ

重要な仕事であった。」

「水をくむ」

「深く掘れば鉱石を掘ること以上に

たいへんな仕事であった。

竹や角樋のポンプ、桶を使用した。」

電照板を見終わり、出口へ。

外から見た新坑道出口。

そして最後に、記念撮影を・・・

鉱石を持つ妻。

その背後には、

小屋の中の職員さんと

撮影する僕の顔が・・・

まるで心霊写真?(笑)

 

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