佐和山城(滋賀県彦根市)後編
いい仕事した?
佐和山城の石垣は、
彦根城築城時に、移設、
再利用されていて、
彦根城石垣の解体調査でも、
それが裏付けられています。
実際、佐和山城を訪問してみると
石垣の痕跡は、ほぼありません。
皆無に近い状態です・・・
いくら移設とは言っても、
ここまで完璧に「持ち去る」ことは、
なかなか至難の業です。
家康さんとしては、
関ヶ原の戦いでの主敵、
石田三成の居城であり、
ある意味、
豊臣政権の威光でもあった
佐和山城の痕跡を消し去って、
時代が変わった事を
人々に周知させる意味でも
「いい仕事」をさせたのでしょう(笑)
新旧、佐和山城マップ
まずは、「新マップ」から。
佐和山城跡駐車場の
案内所でいただいた、
もとにして作られたマップ。
僕たちはこのルートを使って
佐和山城本丸を目指します。
次に「旧マップ」がこちらです。
本丸の案内板に掲載された
江戸時代に描かれた
佐和山城絵図(彦根城博物館蔵)。
「新マップ」を90度右に回した図で、
大手側(表側)から描かれています。
新旧二つのマップをミックスすると
佐和山城の全貌が、
わかり易く把握出来、
想像以上に大規模なお城だった事が、
よく理解できます。
西の丸
ハイキングコースの起点、
龍潭寺を通り、
ようやく山裾に到着。
ここからが本格的な登山です(笑)
随所に案内があるので、
道に迷うことはありません。
かもう坂通り往還(龍潭寺越え)の
切通し(堀切)。
龍潭寺から400m歩いたのか~!
頑張ったな~(笑)
但し、残りは600mある・・
そして、
この道を真っ直ぐ行くと
大手側(城下町側)の鳥居本、
右に行くと、僕たちの目指す、
西の丸、本丸方面です。
ここからは清凉寺の寺域。
団体で入山する場合は、
お寺の許可が必要だと
記されていますが、
僕たちは二人なので、
許可は無くてもOKでしょう(笑)
西の丸・本丸への案内。
もうすぐ西の丸。
西の丸(塩櫓)
案内を書き出すと、
以下になります。
「西の丸は本丸の
北西に広がる3段の曲輪で、
この曲輪はその北端部に位置します。
眼下には「かもう坂通り往還」
(通称「龍潭寺越え」)を見下ろし、
その立地より搦め手からの
敵の侵入を防ぐ役割を
担っていたと考えられます。
この曲輪の北面と西面には
土塁が廻り、水の手に向かって
堅土塁が築かれていますが、
これらは一連で城外への
防御ラインと考えられます。
現在、この曲輪にはたくさんの
瓦片が散乱しており、
北西端部には大きな土坑があります。
城が機能していた当時、
この曲輪には何らかの
瓦葺きの建物が存在したと考えられますが、
今後進められる佐和山城跡の調査で、
少しづつ詳細が明らかになると思います。」
「塩硝櫓跡」の表示。
案内に書かれていた、
「北西端部の大きな土坑」。
妻に穴の底に降りて貰い、
大きさと深さを確認(笑)
西の丸(塩櫓)からの眺め。
往時は木々は伐採され、
切通しも良く見え、
敵の監視場所として、
最適だった事でしょう。
さらに西の丸の上部へ。
平坦路は有り難い(笑)
西の丸跡
案内を書き出すと、
以下になります。
「西の丸は、本丸の北西に位置し、
「かもう坂通り往還」
(通称「龍潭寺越え」)の切通しから
本丸へ至る途中に築かれた丸である。
彦根藩主井伊家に伝来した
3枚の佐和山城絵図を見ると、
西の丸には3段の曲輪が描かれ、
いずれも上段に「焔硝櫓」、
下段に「塩櫓」と記されている。
ただ、
現在は下段を「焔硝櫓」と通称しており、
名称の混乱が見られる。
また絵図には描かれていないが、
北西に伸びる尾根にも
2段の曲輪が明瞭に確認できる。
西の丸跡は、
3カ年にわたる測量調査により、
曲輪以外にも
土塁や竪堀など数多くの遺構を
確認することができた。」
確かに、先程行った、
西の丸の下段には「塩硝櫓跡」と
漢字までミックスされた
案内がありましたね(笑)
本丸
西の丸からさらに登って本丸へ。
「猿に注意」
「スズメバチに注意」と
書かれていましたが、
今の所どちらにも遭遇はせず、
順調に本丸を目指します。
登り疲れた妻を撮影。
これも旅の記念、
思い出になるはず?(笑)
もうすぐ本丸だ~!
遂に本丸(佐和山山頂)に到着。
曇っていた空から、
ここで遂に雨がパラパラと・・・
これは、
石田三成さんの涙雨か?
いや、
僕たちが来た事への嬉し涙でしょう!
「佐和山城趾」の石碑。
下の石は、
石垣に使われていた石かも?
佐和山史跡略図。
こちらは先程書いた「旧マップ」の
真反対(搦手側)からの図です。
かなり年季の入った案内板ですが、
これがあったお陰で、
佐和山城の港となっていた、
旧松原内湖やそれに通じる
百間橋跡の位置も
知る事ができました。
本丸跡
案内を書き出すと
以下になります。
「佐和山の山頂、
標高232.9mの位置に
本丸が設けられていた。
現在も山頂は平坦であるが、
かつて本丸に存在したであろう
天守台や枡形などの遺構を
ほとんど確認することができない。
本丸は大規模な
「破城」があったと考えられる。
かつて天守台は
1丈5尺(約4.5m)あり、
その上に五重の天守が聳えていたと伝える。
また、井伊家に伝来した
「佐和山城絵図」では、
本丸の南東に月見櫓、
北に金蔵などの施設も存在したようである。
本丸への出入り口である桝形は、
本丸の南西あたりに
わずかな痕跡を認めることができるが、
登城道にどのように
つながるのか明瞭でない。」
天守台も跡形なく壊された理由は、
やはり三成や秀吉の痕跡を
消すことだたのかな・・・?
萬霊供養地蔵尊。
佐和山城は関ヶ原の戦い後、
東軍の攻撃で落城し、
石田三成の父や兄も
ここで亡くなっていますから
家臣も含めた供養をする
地蔵尊かと思われます。
合掌・・・
本丸から彦根市街方面の景色。
彦根城の全景も見られます!
双眼鏡を使うと・・・
彦根城の天守が、
はっきり見えますね!
こちらは本丸の北側。
明日行く予定の伊吹山が、
よく見えています。
(実際には行けなかったが・・)
伊吹山の麓は関ケ原、
西軍の敗戦後、
あっという間に佐和山城が
落城したのもうなずけますね。
次に唯一残る天守石垣跡へ。
お~隅石っぽい石ですよ!
近くまで行って撮影。
形や大きさからして、、
天守で使われていた石で
間違いないでしょう!
最後は佐和山城の石碑バックに
ツーショットで佐和山城の
攻城は完了です。