清水寺(石見銀山)
誠実なおもてなし
石見銀山の各所にある案内は、
比較的メンテナンスされた
新しいものが多く見受けられ、
各所の見所を
「しっかり説明する」という
観光地としての誠実さが伝わってきます。
そんな誠実さの象徴が、
清水寺の案内板です。
「銀峰山 清水寺(真言宗)」
写真と境内図付きで、
実に素晴らしい案内ですよ!
前半部分を書き出すと以下になります。
「銀峰山清水寺は、縁起によれば
推古天皇の時代に天池寺として創建し、
その後、延暦十七年(798)に
清水寺と改め仙ノ山の中腹に
移転したと伝わる。
現在地に移ったのは
明治十一年(1878)の頃で、
昭和六年(1931)三月には
神宮寺、長楽寺と合併した。
現在の山門は、
神宮寺(佐毘売山神社の別当寺)に
あったものを移築したもので、
市指定有形文化財に指定されている。
大久保長安配下の山師・安原伝兵衛の
菩提寺であり、
当時には銀山開発の功績により
徳川家康から拝領された道服
(重要文化財 辻が花染丁字文道服)が
奉納された。」
これで、前半だけですからね(笑)
続きの後半部分は
実物と照らし合わせながら、
書くことにします。
境内
龍源寺間歩への往路は
ガイドツアーだったので、
ほんの数分(笑)
立ち寄っただけの清水寺ですが、
復路では、二人だけで、
じっくりと拝観します。
往路で撮影した、
石垣と山門と妻の背中(笑)
山門。
案内板では以下が
書かれています。
「一間一戸の小規模な薬医門の形式で、
建立年代は十九世紀前期頃と考えられる。」
「山門の正面桁にかかる扁額は
代官加藤余十郎の筆によるもので
「銀華厳」
(万延元年十二月 加藤清風書」と
刻んである。」
加藤余十郎の筆による扁額。
翌日訪問した
「いも代官ミュージアム」で
得た情報によると、
この方は、
石見銀山奉行を退任後、
生野銀山(兵庫県)を擁する、
生野代官となっています。
加藤ちゃん、よほど「銀山」との
相性が良かったのでしょう(笑)
「石造不動明王立像。」
「石造毘沙門天立像。
いずれも福光石で彩色が施してあり、
江戸末期のものと推定される。」
(案内より)
彩色された石像というのが、
ちょっと珍しいですね。
仏像に参拝。
本堂。
左右の狛犬が、
神仏習合を想起させます。
「普門殿」の扁額。
天井絵には様々な家紋が
あしらわれています。
安原伝兵衛の墓。
風化が進んでいますが、
墓石には、
「安原備中因繁」と
徳川家康から貰った名前が
刻まれているようです。
安原さんを調べてみると
生まれは現在の岡山県で、
石見銀山では「釜屋間歩」という
めっちゃ銀が産出された鉱脈を
掘り当てた人です。
「高梁川流域連盟」という
サイトによると、
出身地である早島の鶴崎神社の
再建事業に積極的に寄進したり
慶長十七年(1612)には、
「御竈殿鳴動神事」
(鳴釜神事)で知られる、
岡山市に鎮座する
尽力したと書かれています。
ちなみにその御竈殿はこちらです。
以前参拝した時に撮影したもので、
その時は、まさかこれが、
安原さんが、石見銀山で得た
「巨万の富の一部」(笑)で
出来たものとは、
全く知りませんでした。
そして、ここでふっと思ったのが、
「釜屋間歩」の「釜」は、
もしかしたら故郷の吉備津神社の
鳴釜神事の「釜」から付けた名前かも
知れないということです。
あくまでも勝手な想像ですが、
故郷愛の強かった安原さんならば
有り得ることかとも思います。
攻を遂げ名を成しても、
常に故郷の繁栄を願った安原さん、
ホント素晴らしい人だ〜!
弘法大師像やお地蔵様。
仏像群にも参拝し、
これにて清水寺訪問は完了です。