島津家墓所(福昌寺跡)島津斉彬の墓
「たら・れば」
鹿児島で江戸時代以前の
著名人の墓へ行くと、
多くが「寺跡」に存在していて、
藩主島津家の墓でさえ
例外ではありません。
明治の神仏分離、廃仏毀釈で、
当時、鹿児島県にあったお寺は全て
廃寺になっていますが、
これは全国的に見ても極めて稀な例です。
廃仏毀釈は日本の黒歴史、
「たら、れば」は無いとはいえ、
明治の神仏判然令がなかったら・・
誰かが止めていれば・・
貴重な文化財の多くが残ったでしょうに
返す返すも勿体なかったですね・・
墓探し
島津義弘の墓から、
島津斉彬の墓を目指すも
どこにあるのかが一向にわからず、
とりあえず僧侶の墓がある
山の上へ登ってみました。

とにかく行ってみます(笑)

途中見つけた墓(多分)ですが、
これじゃないですね・・・
そして、僧侶の墓域へ入り、
段差の下にあったのが、
こちらの宝篋印塔です。

Googleマップの位置にも合うし、
多分これだろうと思ったものの
この場所からは3mほどの段差もあり、
道も無いし、
それらしきものは
目の前にあるけれど、
行く事は出来ないという、
なんとももどかしい状態に
陥ってしまったのです(汗)
突破(笑)
遂に理解できたこと、
それはお墓への入口は、
東西2箇所あるという事です。

こちらは後程見つけたお墓の見取り図です。
向かって左下、白線の入口は、
白丸で囲んだ島津義弘の墓へ通じ、
向かって右下、黄線の入口は、
黄丸で囲んだ島津斉彬の墓へ通じ、
それぞれの墓域は遮断され
行き来はできません。

遂に着いた〜!
悩んだ分、
東側の門を見つけた喜びは
ひとしおです(笑)

福昌寺跡の案内を抜粋すると
以下になります。
「寺中常に千五百余人の修行僧あり
ー日本三大僧録所といわれた巨大寺院の跡ー
玉龍山福昌寺は1934年(応永元)
島津一族の石屋真梁禅師を開山に、
島津家7代元久が建てて、
代々島津藩主の菩提所となった寺院です。
曹洞宗の流れをくみ、
南九州一円の僧侶を支配する僧録所、
さらには勅願所として、
その末寺は九州はもとより、
中国、四国にまで広がったといわれます。
1869年(明治2)の廃仏毀釈で
廃寺となり、跡地は玉龍高校となりました。
現在、法燈は
北薩川内の地で守られています。」

入場。
島津久光の墓
先に入口正面奥にある
島津久光の墓へ。

廃寺から20年近く経って
没した久光の墓は、
国家神道真っ只中の明治時代、
当然ですが、
「神道式」として建立されています。

神道碑。

久光の生涯(功績)を綴っています。
江戸時代までならば
「亀趺」(亀に似想像上の生き物)が
台座となっていた事でしょう。

工事中なので外から参拝。
島津斉彬の墓
次に主役の斉彬さんへ。

石垣も石段も、
廃寺とは思えないほど立派です。

エントランス。

標柱には、
「第二十八代島津斉彬之墓」と
刻まれています。
江戸時代から数える、
薩摩藩主としてではなく、
鎌倉時代、源頼朝から
薩摩・大隈・日向の地頭を命ぜられた
藩祖・島津忠久から数えての代数です。

周囲には多くの燈籠が立ち並び、
生前の斉彬の功績が偲ばれます。

ここで、お墓の場所が分からず、
迷った挙句上の段から撮った写真に
再登場してもらいました。
この俯瞰写真、落ち着いてみると
燈籠群も壮観で、森の雰囲気もあるし、
意外といいじゃないですか!
(自己満足・・笑)

右が島津斉彬で、
左が夫人のお墓です。

斉彬さんに参拝。

夫人に参拝。
島津重豪の墓
最後に参拝するのは、
斉彬の曽祖父、
島津重豪の墓です。

参道。

これは広い!
しかも燈籠の数も膨大で、
歴代藩主の中でも
一番の規模かも知れませんね!
島津重豪について、
Wikipediaから抜粋すると
以下になります。
「江戸時代中期から後期の大名。
島津氏の第25代当主。
薩摩藩の第8代藩主。
江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の
正室(御台所)である広大院の父。
将軍の岳父として権勢を振るう一方で、
学問・ヨーロッパ文化に強い関心を寄せ、
蘭癖大名・学者大名としても名を馳せた。」
この方、
持っていなかったのは経済感覚のみで、
莫大な借金を残していますが、
70歳近くで子供を作ったり、
とにかく精力、行動力、知力、学力
政治力など全て備わっていて、
一種のスーパーマンでしょう。
訪問時は柵があって
中には入れませんでしたが、
あまり遮るものもなく、
見学・参拝は問題なく出来ました。

龍神様の手水鉢。

墓の正面に建立された
「亀趺」タイプの墓前碑。
儒教形式を取り入れているのと、
重豪の残した業績の大きさを考えると
それ相応のような気がします。

宝篋印塔に参拝。
これにて、福昌寺跡の
島津家墓所訪問は完了です。