早雲寺(神奈川県箱根町)後編
滅びの美学
壇ノ浦で一族もろとも滅びた平氏、
秀吉に攻められ、
小田原城に皆で籠城したものの
最後は降伏し滅亡した北条氏。
どちらも当代の巨大勢力で、
劣勢になりながらも
極端な内部分裂も起こさずに、
最後まで親兄弟が相携え、
必死に戦った事は、
一つの共通点に思えます。
源頼朝や豊臣秀吉が演じた
身内への猜疑心と、それに関連する
数々のドロドロした殺戮。
あげくの果ては、
内部崩壊的に家そのものが
滅亡してしまうのとは、
なんだか対照的です。
滅びるのに美しいも
醜いも無いでしょうが(笑)
平氏や北条氏には、
どうしても「滅びの美学」というものを
感じてしまいます・・・。
北条五代の墓
お寺の道案内には「北條」、
解説板には「北条」と書かれていますが、
基本「北条」の漢字を使うことにします。
早雲寺の本堂を参拝後、
北条五代のお墓へ。
お墓のエントランス。
まずは入口の仏様にご挨拶。
「北條五代之墓
宗祇法師之墓」
わかり易い案内があるので、
安心して前進(笑)
墓域正面の立派な五輪塔。
こちらは江戸幕府二代将軍、
徳川秀忠公の侍医、
今大路道三玄鑑のお墓です。
何故、そんな人のお墓が
ここにあるのかと思い、
Wikipediaで調べると、
「今大路道三玄鑑が京都にいた時、
秀忠の正室、崇源院(江姫)が
重態に陥ったため
急ぎ江戸に戻る途中、
箱根で亡くなり、早雲寺に葬られた」
と書かれています。
これも今大路さんと
早雲寺のご縁なのでしょうか・・・
この石段の上が目指すお墓です。
お墓に到着。
お墓の横にある案内を書き出すと
以下になります。
「史跡 北条五代の墓
天正18年(1590)4月5日
豊臣秀吉は箱根山を越え早雲寺に入り
本陣とした。
6月下旬
石垣山一夜城が完成すると火を放ち、
当時関東屈指の禅刹として
威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は
尽く灰燼に帰したのである。
7月5日北条氏が降伏し、
同11日には氏政、氏照が切腹。
氏直は高野山に追放され、
翌天正19年11月4日逝去している。
なお北条一門では、
伊豆韮山城主であった
氏規(氏政の弟)が
秀吉に許されて河内狭山城主
(約1万石)となり(狭山北条氏)
鎌倉の玉縄城主であった
氏勝が家康の傘下に入り、
下総岩富に
1万石を与えられ(玉縄北条氏)、
この両家の家系は
江戸時代を通じて存続している。
早雲寺の再建は、
当山17世菊径宗存によって
寛永はじめに始まるが
その復興に北条両家の外護は
欠かせないものであった。
北条五代の墓は、
狭山北条5代当主氏治により
寛文12年(1672)
供養塔として建立されたものである。」
五代の墓、近影。
この後、
右端の北條早雲さんから
一柱づつお参りします。
北条早雲(1432~1519)
「俗名伊勢新九郎長氏
戦国時代初期を代表する武将。
京都から駿河今川家に身を寄せ
伊豆・相模を攻略して独立、
戦国時代の幕を開いた。
伊豆韮山で没。享年88」
(案内板より)
北条氏綱(1486~1541)
「父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出。
小田原北条氏の領国を拡大した。享年56」
(案内板より)
北条氏康(1515~1571)
「扇谷上杉家を滅ぼし、
甲斐武田・越中上杉の関東進出を防いで
領国経営にすぐれた手腕を発揮した。
享年57」
(案内板より)
北条氏政(1538~1590)
「夫人は信玄の娘黄梅院。
信玄の西上を後援、
その没後は信長と連携して
武田討伐に加担。
やがて秀吉に敗れ切腹。享年53」
(案内板より)
北条氏直(1562~1591)
「夫人は家康の娘督姫。
下野宇都宮氏を降し、
小田原北条氏最大の領地を形成。
上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して
秀吉と対立し敗れる。
家康の助命により
高野山に流される。享年30」
(案内板より)
これら五代の墓の左側に
寄り添うように建てられたのが、
こちらのお墓です。
誰なんでしょう?
解説はないので、
読んでみます。
「寛文十二年六月四日八十八卒
大真院殿秀山俊公居士」
このように刻まれ
父は北条氏直、
母は徳川家康の娘、
安清氏次と刻まれています。
Wikipediaでは、
明治時代に建てられた、
存在が疑わしい六代目、
北条氏次の墓とあります。
真偽はともかく参拝は完了。
宗祇法師 稲津祇空の墓
北条五代の墓から石段を下り、
すぐ左側にはこちらの案内があります。
連歌師と俳人のお墓。
ここまで来たからには、
お二人にも参っておこうと、
欲張りました(笑)
石段で上へ。
「江戸中期の俳諧師
稲津祇空之墓」
「室町時代の連歌師
宗祇法師之墓」
宗祇さんの生まれた
和歌山県有田川町のサイトによると
「漂泊の詩人とも呼ばれた宗祇は、
諸国をめぐって
連歌の普及に尽力しましたが、
旅の途中に箱根湯本の
早雲寺で82年にわたる
生涯を終えました。
その亡骸は弟子たちによって
宗祇の愛した富士山に近い
裾野の地の定輪寺に葬られました。」
このように書かれています。
これを知ると、
定輪寺も気になりますね(笑)
開山堂と枯山水石庭
お墓の奥に建つのが、
茅葺屋根が美しい建物、
開山堂です。
鐘楼といい、開山堂といい、
茅葺屋根を
美しく維持管理されている
早雲寺さんの住職さんや
檀家さんには頭が下がります。
「開山堂
前大徳見草雲香庵」
扁額にはこのように書かれています。
京都の大徳寺からの
移設なのかも知れません。
「早雲寺開山以天宗清」
案内を超訳すると
「文明四年(1472)
京都伊勢氏の被官
蜷川氏の子として生まれる。
早雲・氏綱・氏康の三代にわたり
小田原北条氏の帰依を受けた以天は、
早雲寺を関東屈指の禅刹に育て、
天文十一年(1542)
後奈良天皇より
正宗大隆禅師なる禅師号を
勅旨されている。」
このようになります。
開山堂を本堂裏から撮影。
手前には江戸時代に作られたという
枯山水石庭が広がり、
茅葺きの開山堂までが、
風景の一部に
取り込まれているかのようで、
心落ち着く素敵な景色となっています。
墓参の最後に、
お地蔵様に参拝。
本当の最後はツーショット。
以前から参拝したいと言っていた妻、
ようやく北条早雲さんたちの
お墓にお参りが出来、
これで北条好きの妻も
きっと満足してくれた事でしょう!(笑)