和仁三兄弟の像(熊本県和水町)
心地よい響き
「和水」と書いて「なごみ」。
なかなか読めませんが、
実に心地よい響きがする町名です。
そんな町名に負けず劣らずなのが、
田中城を散策する前に訪問した
田中城ミニミュージアムの職員さんで、
僕たちに大いなる「なごみ」を
与えてくださいました。
その一つが、
展示室で見つけた和仁三兄弟の像の
場所を聞いた時のお答えです。
「この像は近くの公園にあります。」
(場所も詳しく教えて貰いました)
この言葉に続き、
「元々田中城の本丸に
建てられていたんですが、
国の史跡になった時、
歴史的な裏付けがないものは、
置いてはいけないという事で、
山の上から現在の場所に
移設されたんです。
国史跡になるのも
何かと大変みたいですよ(笑)」
こんな解説までしてくれたのです。
いや~素晴らしい!
何も聞いていないのに、
ここまで詳しく教えてくださるとは!
心なごみますな~(笑)
和仁三兄弟の像
職員さんに教えていただいた道順で、
あっという間に目的地に到着。
駐車場。
目指す像は左端に建っています。
田中城を背にして建つ、
和仁三兄弟の石像。
天正15年(1587)、
秀吉方の1万の大軍に囲まれ、
奮闘の末、滅びた和仁三兄弟の魂は、
今でも田中城と共に、
あるのかも知れません。
真横から撮影。
長男である和仁親実が、
どっかと腰をおろし、
背後に弟二人を従えた構図、
見応え十分ですね!
長男、和仁親実。
三男、親範。
四男、親宗。
巨体と、その風貌で、
「和仁人鬼親宗」と呼ばれた人。
ちなみに次男、統実は、
田中城を攻撃する秀吉側、
立花宗茂の家臣となり
兄弟が相戦う形となっています。
もしかすると関ケ原の戦いの時の
真田信之、信繁(幸村)兄弟のように
「家名存続」のために
敵味方に分かれた可能性もあるでしょう。
(統実さんの子孫は
現代まで続いているので
それならば大正解だったかも!)
三兄弟+2(笑)
冒頭に書いた、
田中城ミニミュージアムの案内。
日本最古の城攻め絵図
「辺春和仁仕寄陣取図」の案内。
平成になって山口県立文書館の
毛利家文庫のなかから
見つかったものと書かれていますが、
毛利家文庫という事は、
この戦いで総大将だった
小早川秀包(毛利元就の九男)か、
毛利家の外交僧であり
秀吉の直臣でもあった安国寺恵瓊が、
この絵図を持ち帰っていたのだと
勝手に(笑)推測してしまいます。
秀包さんだとすれば、
若干二十歳とまだ若いのに、
良い仕事してくれました~と
大いに褒めてあげたいし(笑)
恵瓊さんだとすれば、
関ケ原の戦い後、
石田三成らと共に斬首されたものの
この辺春和仁仕寄陣取図といい、
広島市の国宝建物、
不動院の再興といい、
後世に残る貴重なものを
しっかりと残してくれた、
類まれなる
歴史的重要人物と言えるでしょう!
六四郎橋
駐車場の入口付近に
こんな案内とともに
石橋が架けられています。
六四郎橋。
案内を要約すると以下になります。
「この橋は、大正4年(1915)
石工、小山世作・一松により造られる。
六四郎が和仁川と合流する
県道にあったものを道路拡幅のため、
平成8年、現在地に移転。」
真横から。
渡ってもOKです。
先程の和仁三兄弟の石像と
この六四郎橋は、
どちらも「居場所がなくなった為」
移転されてきたもの・・・
ここは石造物が吸い寄せられる
安寧の地としての
なにかを持っているのかな?(笑)