建部大社(滋賀県大津市)前編
千円札の顔
来年7月から発行される
新たな千円札の「顔」は、
北里柴三郎ですが、
日本最初の千円札の「顔」は、
ここ建部大社の御祭神、
日本武尊
(ヤマトタケルノミコト)です。
参道の案内。
発行は昭和20年8月。
本土決戦準備に追われながらも、
千円札発行の準備もしていたとは、
何だかすごいお話ですね!
そのお陰で、
ヤマトタケルノミコトも
建部大社の本殿も
「発行された正式なお札」として
歴史に残ることが
出来たのですから
当時の政府として、
ある意味グッジョブでしょう!
本参道
御社殿近くの駐車場に車を置き、
一旦横参道の入り口まで戻り、
そこから参拝を開始。
境内図と案内。
参道入口。
鳥居をくぐる
大型バスの運転手さん、
ドキドキしないかな?
一之鳥居。
神額のアップ。
本参道から左に折れると
御社殿方面への参道となっています。
二之鳥居。
上空からの社叢。
さらに奥へ。
建部大社のまつりと大津の豆知識。
この案内、「豆知識」どころか、
多くの知識が詰まっていますよ!
中でも驚きは、
琵琶湖に流れ込む一級河川は119本、
それに対し、流れ出るのは
瀬田川ただ1本という事実。
琵琶湖って摩訶不思議な湖だなあ〜!
そしてこの後、
御祭神日本武尊
(ヤマトタケルノミコト)の足跡が
パネルによって案内されています。
僕が神社検定で学んだ、この神話は、
かなり強く印象に残っています。
それは、
日本武尊が単なるヒーローではなく、
父、景行天皇との「なせぬ間柄」や
油断していた事による
伊吹山での受難、
そして、死に至るまでは、
普通の人の一生にも通じる
人生の縮図を見るようだからです。
「一、ヤマトタケルの西征」
「父、景行天皇の命により
九州・熊襲建(クマソタケル)兄弟を
征伐のため九州へ。
そして、熊襲の女に紛れ女装して
相手を油断させ、誅殺。
熊襲兄弟を討った事から
強者の称号である
「タケル」の名をもらい、
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の名で
呼ばれるようになった。」
「ニ、ヤマトタケルと草薙の剣」
「西国征伐から戻った
ヤマトタケルノミコトに景行天皇は
統合征伐を命じます。
途中、伊勢神宮に立ち寄り
叔母のヤマトヒメから
神剣:天叢雲剣
(アメノムラクモノツルギ)と
火打具を授かりました。
駿河の国に達したミコトに国造たちは、
「沼に住む荒ぶる神に困っております」と
野に誘い出され
四方から火を放たれました。
退路を断たれたミコトは、
ヤマトヒメから授かった神剣で
草をなぎ払い、
火打具で向かい火を放って
野火から脱出します。
後に火で焼いたことからこの地を
焼津(やいず)・(静岡県)といい、
草をなぎ払った神剣は
草薙の剣(クサナギノツルギ)と
呼ばれるようになりました。」
「三、オトタチバナヒメの入水」
「更に東へ進んだヤマトタケルノミコトは、
次に相模の国から船で海路を進み上総の国へ
渡ろうとしました。
しかし、海が荒れ
船を進めることが出来ずにいると、
同行していたオトタチバナヒメが、
「私が海に入って海の神を鎮めましょう」
といって自ら荒波に身を投じたのです。
すると、たちまち荒れ狂っていた海は、
静まり対岸に着くことができました。」
このシーン、ホント泣けますね・・・
この後、任務を果たし
帰還するタケルさんが、
足柄山からオトタチバナヒメを思い
「吾妻はや」(あゝわが妻よ)と
嘆き悲しんだことから
関東を吾妻→東(あずま)というそうです。
ただし、
東国征伐から戻ったタケルさん、
出発前に結婚を約束していた
ミヤズヒメと結ばれているんですね(笑)
「四、ヤマトタケルと伊吹山の神」
「尾張の国に戻った後は、
休み暇もなく、
伊吹山の悪い神の退治へ。
この時、神剣:草薙の剣は、
ミヤスビメに預けて出発。
伊吹山に登る途中、
牛ほどの大きな白い猪に出会い
「これは山の神の使いだな!
帰り道で相手になってやろう」
と大きな声で威嚇してやり過ごしました。
すると突然激しく雹が降り出し
行く手をはばまれます。
実は白い猪は山の神の使いではなく、
山の神だったのです。
怒りを買い雹に打たれて衰弱したミコトは、
やっとの思いで山を脱出し
故郷の大和の国を目指します。」
やはり、
ヤマトタケルノミコト物語の
クライマックスは、
この伊吹山でしょう・・・
現在の伊吹山山頂には、
ミコトの石像が登山者を
優しく見守ってくれています。
今年5月に登頂した際に
撮影した日本武尊像。
「五、ヤマトタケルと白鳥伝説」
「大和の国を目指し歩き続けた
ミコトは、「足が三重(ミエ)曲がり
固い餅のようだ」と歎いたことから
その地を三重(みえ)と
言われるようになりました。
更に体調を悪くしたミコトは、
国しのびの歌を詠みます。
「倭は国のまほろば
たたなづく青垣
山隠れる倭うるはし」と詠み、
伊勢の能褒野(三重県鈴鹿市)で
ついに力尽き息を引き取ります・・・
妻や子供たちが駆けつけると、
ミコトの魂は白鳥となり
能褒野から河内の
志紀(大阪羽曳野)へと飛び立ちました。
今も白鳥伝説として語り継がれています。」
三重県の名前の由来が
ヤマトタケルノミコトさんの
足の具合に関係していたとは、
初めて知りました。
建部神社のあゆみ。
参道だけで、
もうお腹いっぱいになるくらい
情報だらけです(笑)
(続く)