手向山砲台跡(北九州市)

 

海峡と砲台

世界の歴史は戦争の歴史、

平和な時代もあったとはいえ、

人類は戦いに明け暮れてきました。

それを基に、現在の国境や

政治体制があります。

しかし、現在も「戦いの最中」と

言えるかも知れません。

それは、残念ながら、今でも

軍事力がなければ国家の主権は

守れないという事実です。

明治に入り、ロシア、中国、欧米の

軍事力に対抗し国体を守るため、

日本各地の海峡に

砲台が設置されました。

その一つが手向山砲台で、

ここは関門海峡を防衛する

最前線でもあったのです。

手向山砲台跡へ

宮本武蔵の養子である宮本伊織が、

江戸時代初期に建てた、

父、武蔵を顕彰する石碑、

小倉碑文」を見るために登った手向山。

その小倉碑文の裏側に

砲台跡は、残っています。

海岸に近い側の展望台からの景色。

門司港レトロもいいけれど、

誰もいないここから眺める

関門海峡もまた格別ですね。

今は平和で、のどかな光景ですが、

70年前までは常に戦争の最前線。

第二次世界大戦では米軍の機雷が

無数に設置され多くの船が沈み、

幕末には、

下関戦争、小倉戦争の舞台となり、

遡れば、平安時代末期、

源平合戦での壇ノ浦の戦いと

常にここは軍事最前線でした。

そんな思いに馳せてしまう展望台から

少し下って駐車場の前が、

砲台跡になっています。

砲台跡、第一号。

砲台跡、第二号。

砲台跡、第三号。

手向砲台の碑。

案内。

「江戸時代にはこの山は

代々小倉藩の家老だった宮本家が、

藩主から拝領していた。

明治になって手向山(当時は田向山)

一帯を陸軍が接取、

戦争による艦隊の来襲を予想し、

関門海峡防備のために

山頂東側に砲台を構築した。

中央四号倉庫の上部に

「明治二十年(1887)九月起工、

同二十一年(1888)九月竣工」とあり、

砲台の設置は明治二十一年(1888)

大砲の設置は

同二十四年(1891年)である。

砲台は一砲座に

二十四センチ臼砲二門を配備、

合計六砲座を設置した。

右の四砲座は直線に、

左の二砲座はやや内側に折れた

「折線砲列」になっていた。

各砲座は山の斜面を削って

三方をすり鉢状にしていた。

砲座から関門海峡が見えないので、

砲台両端から

100メートル離れた場所に

観測所を設置し

位置や距離を確認し、

砲座と連絡するしくみになっていた。

しかし、砲台は実戦に

使われることはなかった。」

このように書かれていて、

文中の「中央四号倉庫」は、

こちらです。

第四号。

起工、竣工時期は、

ここに書かれています。

この階段が砲塔への

通路だったのでしょうか?

第五号。

第六号は確認出来ず、

いや確認する気力が無くなったか(笑)

幕末の激戦地

砲台跡から帰路についた時に

発見したのがこちらの案内です。

「幕末の激戦地を臨む」

小倉戦争(第二次長州征伐)で、

長州が肥後に大敗した場所で、

その激戦地がここから見えるようです。

木々がありますが、

なんとか見学は可能でした。

小倉駅へ

この日の目的地は、

手向山で終了し、

あとは帰路につきます。

手向山バス停から小倉駅へ。

小倉駅に到着。

小倉駅名物、祇園太鼓の像。

小倉初代藩主、細川忠興が、

京都の祇園祭を元にはじめた祭りで、

その後藩主となった

小笠原家の時代にも存続し、

現代に至っています。

細川ガラシャがきっかけの旅の最後に、

その夫、細川忠興が始めたお祭りで

旅の〆が出来るなんて

これって、完璧過ぎかな(笑)

 

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