宇品丸慰霊塔(新潟市)

 

命をつなぐ

新潟旅行の1週間ほど前に知ったのが、

宇品丸うじなまる慰霊塔」です。

「宇品」という言葉、

広島生まれの僕には

「宇品港」として馴染み深いので、

俄然興味が湧いてしまいました。

新潟港で触雷し座礁した「宇品丸」は、

終戦間際の空襲時、

動けないものの対空砲火で応戦、

必然的に、宇品丸に敵機の攻撃が

集中する事になり

多くの乗員が亡くなっています。

その結果、新潟市内の被害は、

最小限に食い止めらました。

慰霊塔は、その10年位後に、

宇品丸の方々を

忘れないようにと

建てられています。

「家族を守る、命をつなぐ」

そんな思いを抱きつつ

散華された宇品丸のご英霊達・・

今の平和が、

このような方々の尊い命の上に

成り立っていること

改めて感じた次第です・・・

触雷・座礁地点

話は前後しますが、

慰霊塔参拝後、

新潟港入り口近くの

入船みなとタワーから

宇品丸の触雷地点と、

ご英霊たちが最後を遂げられた

座礁した地点を眺め、

慰霊と感謝の念を捧げました。

堤防の先の小さな灯台付近が、

触雷地点です。

そこから沈みそうになりながらも、

宇品丸は湾内を航行しています。

座礁し応戦したのは、

手前の岸壁付近だと思われます。

こうして見ると、

新潟市の中心地は、

すぐそこなんですね・・・

慰霊塔

僕たちが訪問した時、

慰霊塔前面の広場は工事中で、

「あるべき場所」に近づくも

それらしきものは見えなく、

「もしや、撤去されたのか?」

なんて一瞬心配したのですが、

慰霊塔はちゃんと残されていました。

塀と工事現場の小さな隙間に造られた

臨時のエントランス。

ちゃんと参道も設らえています。

慰霊塔へ。

宇品丸のご英霊に参拝。

背中のすぐ後ろは工事現場の壁で、

慰霊塔との距離が取れないながらも

全体像が撮影できたのは、

やはりiPhoneの

13m超広角レンズの威力のお陰です(笑)

台座に刻まれた

発起人の方々のお名前。

慰霊塔の左側に建つ、

宇品丸慰霊塔建立の趣意書。

以下、全文です。

「大東亜戦争の終戦間近い

昭和二十年八月十日

米軍の戦闘機(グラマン)数機に

新潟港湾附近の空襲を受けた際に

偶々(たまたま)同港山田町側に

停泊中の軍用船宇品丸の兵士は

敢然としてこれを迎撃奮戦した為に

米軍機も攻撃目標を宇品丸に集中して

弾丸のほとんど全部を

撃ち尽くして逃走した

その為港湾施設及び市街は

最小限度の被害で済んだが

宇品丸の乗員はほとんど玉砕した。

昭和二十九年地元山田町外有志相図り

新潟市の救神となった

宇品丸勇士の英霊を慰めようと

慰霊塔建立の議あり茲(ここ)に

当時の市長村田三郎氏の筆を得て

さゝやか乍ら建立を実現し、

以来毎年町内会にて慰霊祭を

執り行い英霊に感謝の意を

表している次第である。

〜嗚呼悲壮

宇品の勇士花と散り

その名も数も無きあとの

霊なぐさむと伏し拝む〜」

こちらは新しい詩碑。

「ああ悲壮 世界平和を

夢に抱き 玉砕しけり

宇品の勇士」

裏側の文字を書き出すと

以下になります。

「大東亜戦争の終戦間近い

昭和二十年八月十日

新潟港湾付近の空襲を受けた際、

山田町側に停泊中の

軍用船宇品丸の勇士は

国土防衛に敢然として迎撃奮戦し、

乗員はほとんど玉砕した。

その慰霊五十年忌に当たり

永遠の世界平和とミタマの

安らかなるご冥福を祈念し

ここに之を建立する。

平成六年八月吉日

蒼竹 江川 清謹書」

平成なので

「新しい詩碑」と書きましたが、

30年も昔の事、

今はもう慰霊八十年忌。

時が経つのは早い・・・

新潟を守られた

ご英霊の皆さんのこと

忘れないようにしないと・・・

 

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