田中城(熊本県和水町)後編
「名誉」と「領地」
戦国時代末期の肥後国(熊本)は、
50以上の国衆(国人)が割拠し、
新たな為政者である豊臣秀吉にも
それぞれが本領安堵を要求し、
実際に秀吉もそれを認める
朱印状を出していたようです。
しかし、そんな紙切れは、
結局「力」関係ですぐ反故になるもの。
秀吉から肥後国主を拝領した
佐々成政の領地支配の性急さが招いた
肥後国衆(国人)一揆と
言われていますが、
恐らく秀吉の考えは、
国衆を一掃する事だったはずです。
結局、ここ田中城を含む
国衆の城はことごとく落城し、
肥後国から国衆は一掃され、
その後、北部熊本は、
熊本城を本拠とする加藤清正、
南部熊本は、
宇土城を本拠とする
小西行長の領地となり、
関ヶ原の戦い後、
負けた小西さんの改易により
加藤ちゃんが、人吉地方を除く
全ての肥後国の領主となっています。
肥後国衆たちは、
巨大な大阪城に住み、
強~い島津も蹴散らした
百戦錬磨の秀吉に対し、
恐らく「勝てる」とは
思っていなかったはず・・・
それでも全力で戦ったのは、
やはり「名誉」と「領地」が
命よりも重かったからでしょう。
今の日本もある意味、
戦国時代の肥後国衆たちと
似ている気がします・・・
自分の意志とは無関係に、
巨大な勢力が攻めてきたその時・・
日本はどうするのか?
戦わずして軍門に下るのか、
それとも・・・
いや~ホント、
難し時代になってきたものです。
出丸跡2
本丸とその南側の出丸跡3を巡り、
次に出丸跡2と出丸跡1へ。
出丸2は東側、
出丸1は西側に位置しています。
竹林が美しい腰曲輪からスタート。
空堀の底から右上に見えるのが、
出丸跡2です。
城側からの高さは5m位かな?
登って見ると景色が開けてきます。
お~かなり見えますよ!
これなら見張りはバッチリでしょう。
駐車場がある北側。
東側の眺望。
三方が見渡せるという事は、
秀吉方の大軍がよく見えたという事。
武士と言えども「人」、
怖かったでしょう、
逃げ出したかったでしょう・・・
出丸跡2の
空堀に置かれた栗の大軍!
妻は何故か踊っています(笑)
出丸跡1
さらに西に進んで出丸跡1へ。
さすが国史跡、
整備状況が美しい!
出丸跡1が見えてきました。
出丸跡1の前に建つ
「空堀跡」の案内。
案内を要約すると
以下になります。
「この空堀は、
主郭を形成している丘陵の
裾部に約300mにわたって
巡らされています。
主郭側で約10m、
対岸の高台(出丸跡1)とは
5.6~6.7mもあり
十分に堀の役割を果たしていたと
思われます。
底部幅は0.8~1.1mと狭く
人ひとりがやっと通れるほどです。」
ここが人ひとりがやっと通れる堀。
大きさの比較で妻登場。
こんな細い道だと
本丸(右側)と出丸(左側)から
一人ひとり狙い撃ちされるのは必至。
妻は既に戦死しています(笑)
井戸跡に続く堀切。
堀の深さや細さに感動した後は、
出丸跡1へ登ってみます。
階段状の曲輪です。
出丸から本丸(右)と
出丸跡2との空堀を俯瞰。
対岸の本丸。
出丸跡1の麓で見つけた柿の木。
たわわに実って美味しそう!
妻も一口・・・
いただきま・・・せんでした(笑)
これにて田中城の攻城は完了です。