2024/06/06

徳島城(徳島市)大手門

 

手腕

豊臣政権において有力大名だった

加藤清正、福島正則、

堀尾吉晴、田中吉政などは、

関ケ原の戦いで徳川家康に味方し、

大封(大きな領地)を得るも、

その後は難癖付けられて、

その子や孫の代までには、

改易(お家断絶)されています。

これは家康〜秀忠と続く

徳川政権を盤石にする為の布石であり

「既定路線」だったのかも知れませんが、

それらの大名と同じく、

豊臣政権の中枢にいた蜂須賀家は、

阿波・淡路からの転封もなく、

25万石以上の石高も変わらず

明治維新を迎えています。

藩祖の蜂須賀家政さんが、

幕府から難癖付けられない為に、

寿命が縮まるほど(笑)

徳川さんに気を遣った賜物でしょうか?

いずれにしても、

戦国から江戸への大きなうねりを

見事に切り抜けた

蜂須賀家政さんの手腕は、

大したものですね!

大手門

鷲の門を過ぎて、

右手に見えてくるのが大手門です。

大手門前の徳島城跡の案内。

徳島城の築城にあたっては、

秀吉の命により、

小早川隆景や長宗我部元親、

比叡山の僧侶が協力したと

書かれています。

秀吉と蜂須賀家政の父、

正勝(小六)との親密さが、

何となく理解できますね。

お〜石垣がいい感じ!

下乗橋(小見付橋)の案内。

江戸時代は太鼓橋だったと

書かれています。

左右の石垣、

見るからに全く違いますね!

右側は古い野面積み。

左側は綺麗な打ち込み接ぎで、

角石はお手本のような算木積みです。

同じ門において新旧二つの石垣を

一挙に堪能できるとは、

なんと嬉しいことでしょう!

枡形虎口。

城内側から見た枡形。

左側の石垣は緑色片岩の中に、

角石に一つだけ、

赤っぽい石が見えています。

これは阿波の赤石と言われる

紅簾(こうれい)片岩かもしれません。

旗櫓・数寄屋門

ここからは表御殿跡を

東の堀伝いに歩きます。

殿様は山上の本丸ではなく、

ここに住んで政務をとっていました。

右の石垣の外側が水堀です。

石垣の上から堀と数寄屋橋を撮影。

城内側がら不明門越しに

数寄屋橋を撮影。

城内の凶事の際以外には

開かれなかった門ですので、

心もち控えめな造りに

見えてしまいます・・

城山の貝塚

次は貝塚へ。

城の遺構よりもずっと先輩です(笑)

案内を抜粋すると

以下になります。

「城山の貝塚は、約4,000~2,300年前の

縄文時代後期~晩期を中心とする

岩蔭・洞窟遺跡であり、

現在この3号貝塚のほかに

1号貝塚・2号貝塚が存在する。

1922(大正11)年に

鳥居龍蔵博士らによって

発掘調査が行われ、

なかでも2号貝塚では、

ハマグリ・カキ・ハイガイなどを

主体とした厚さ60~100cmにもおよぶ

具層が確認され、

縄文時代後期の土器片や、

ほぼ完全な屈葬人骨1体を含む

3体分の人骨が出土した。

なお3号貝塚からは

弥生土器も出土している」

貝塚の正面。

貝塚の左側に建つ

鳥居龍蔵博士の記念碑。

この方、

考古学者というだけではなく

文学博士という

肩書きも持たれています。

まあ、

レオナルドダビンチみたく

きっとマルチ人間でも

あったのでしょう。

平和子供記念塔

時代は一気に縄文から江戸時代へ(笑)

この辺りは築城初期の石垣かな?

行幸記念の石碑。

その背後には、

何やら銅像が立っています。

石が敷き詰められ、

その石は塔を形造り、

そのてっぺんには、

ちょっと驚きの光景が!

え〜!これって、

まんま、

「鳩におしっこかけてる少年」です(笑)

これは一体?・・・

そう思いながら案内を確認。

塔の正式名称は「子供平和記念塔」。

案内を要約すると、

「昭和23年、世界平和がいつまでも

続くようにと願って建てられた。

全国の小学生、アメリカ、

皇太子陛下から贈られた石が、

塔に埋め込まれている。

ブロンズの子供像は、

県内の学童からデザインを募集し

それをもとに日和佐の彫刻家、

太田三郎氏が制作した。

平成七年、戦後50年を機に修復され

盗難にあっていた二羽のハト像も

復元された。」

このようになります。

ほんの数年前まで、

戦争で苦しみ抜いてきた

当時の小学生が考えた「平和」とは、

当たり前のように

食べられ、水が飲め、

爆弾が落ちてくる心配もせず、

の〜んびりと裸でおしっこ出来る・・

そんな世の中だったのでしょう。

時代背景を知ると、

この像が心から愛おしく見えてきます。

蜂須賀家政公銅像

次に藩祖、蜂須賀家政公銅像へ。

クスノキを従え、

堂々と建つ蜂須賀家政公。

以下案内の抜粋です。

「蜂須賀家政公(藩祖)は、

天正13年(1585)豊臣秀吉の

四国平定の大功により

阿波一国をたまわり、

天正14年(1586) に一宮城

(徳島市一宮町西丁)から

中世に築造された

渭津城を修築して徳島城とし、

藩政の中心地とした。

入国の後は、藍、塩など

それまで阿波になかった産業を取り入れ、

新しく製塩・製藍工業を起こし

盛んに日本中に売り広めた。

また、全国でも有名な

阿波踊りも家政公時代に

始まったと伝えられる。

戦前は、野太刀と長を持った

甲骨姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の

銅像が立っていたが、

戦時中に供出されてしまった。

それが昭和40年(1965)に

裃(かみしも)姿の

家政公の銅像に生まれ変わった。」

こちらが文中にある

戦前に建っていた

蜂須賀小六正勝公像です。

(Wikipediaより転載)

この長槍を持った姿を見ると

熊本県本妙寺の加藤清正像

思い出します。

こちらがその加藤清正像です。

長槍を持った武将像って

なんかめっちゃ絵になりますね!

蜂須賀小六正勝公の像もカッコいいし

復活して欲しいものです・・・

話は戻って、家政さんの像を確認。

徳島名産、緑色片岩の緑が、

ブロンズの色とコーディネートされ

この一体感が素晴らしいと思います。

平和な江戸時代なり、

槍は扇子に、甲骨は裃に変わり、

ある意味、

先ほどの「子供平和記念塔」と

通づるものを感じます・・。

家政公の功績など。

ここまでで銅像見学は終了し、

ここからは、

山上の本丸を目指します。

今日の桜

僕たちの徳島城訪問時、

まだ桜の季節では

ありませんでしたが、

家政公の銅像近くで

数輪咲いているのを発見!

やっぱり桜には癒されますな〜!

(続く)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください