源義経公妻子の墓(岩手県平泉町)

 

「北の方」

「北の方」とは貴族などの

「正妻」を意味する言葉です。

僕は最近知りました(笑)

源義経公妻子の墓の案内にも

「北の方」と書かれていますので、

ここは有名な静御前ではなく

正妻のお墓です。

とかく義経さんの逸話では、

静御前がフューチャーされていますが、

正妻さんも何かと

ご苦労があったはず。

義経と共に京都から奥州へ逃避行の果て、

最後は義経と運命を共にした北の方、

やはり、

夫への深い思いがあったのでしょう・・

お墓へ

金鶏山の麓、毛越寺と中尊寺の

中間地点あたりに

源義経公妻子の墓はあります。

平泉を歩いて巡る僕たちからすると、

すこぶる効率の良い場所なんですね!

毛越寺を出発し、

観自在王院跡を左に見て歩きます。

途中、観自在王院跡

遺構に寄り道しながら

金鶏山入口に到着。

ここを中尊寺方面へ。

少し行くと、

「源義経公妻子の墓」の

矢印も出てきました!

到着。

源義経公妻子の墓

まずは山の案内を確認。

左側の案内を書き出すと

以下になります。

「金鶏山

平泉の中心部に位置する

標高100mの円錐形の小高い山です。

「二代基衡が黄金で雌雄の鶏を造り、

山中にこれを埋めて平泉を鎮護した」

と言う伝承があり、

山頂には十二世紀の

経塚の高まりが残っています。

東麓には花立廃寺と呼ばれる

寺院跡があります。

毛越寺の東側を区画する土塁の延長線上に、

この山頂が位置することから、

毛越寺やその周辺の町並みは、

金鶏山に基づいて

造られたものと想定されます。

また、無量光院跡から見た金鶏山は、

仏教の西方浄土の景観を現しているとされ、

こうした信仰の象徴としても重要な山です。」

目指すお墓はすぐ近く。

右(直進)すると千手堂、

左に行くと、お墓です。

金鶏山登山登入口の案内板。

背後には墓域が見えています。

「源義経公妻子の墓」

案内を書き出すと

以下になります。

「源頼朝の威圧に依って藤原泰衡が

高舘に義経公を襲った。

義経公は北の方と幼児を殺害し、

自害したと伝えられる。

時は平安時代の文治五年(西紀1189)

閏四月三十日、

三十一歳で最期を遂げられた。

このお墓は、高舘で悲しくも露と消えた

妻子の墓と伝えられているが、

元は千手院境内で、ここから

約三百米程の西北金鶏山の

山麓にあったが、

ここに墓石を遷し供養を怠らない」

お墓のエントランス。

玉垣中へ。

義経公の妻子に参拝。

千手堂

次にお隣の千手堂へ。

先に案内を確認。

藤原三代の位牌もあるようです。

お堂手前の仏像。

お堂正面。

参拝。

この後は、

金色堂のある中尊寺へと歩きます。

 

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