柴田勝家公・お市の方の墓(西光寺)

 

飛び出し坊や

柴田勝家のお墓参りの為、

西光寺を訪問した際、

めっちゃ印象に残ったのは、

エントランスの飛び出し坊やです(笑)

西光寺の寺号表が霞むほど

存在感抜群の飛び出し坊や(笑)

滋賀県の象徴とも言うべき

飛び出し坊やが、

何故に福井県にあるのか・・?

寺号表側面には、

「延徳元年朝倉貞景発願に依り

岡保村次郎丸に創建

天正十年北ノ庄主勝家が

福井発展の為現在地に移築」

このように刻まれています。

朝倉貞景は朝倉義景のおじいちゃんで、

Wikipediaには、

清水寺の朝倉堂は元々この人の寄進だと

書かれています。

貞景さん、かなりの人物ですね!

そして・・、

ここでも「飛び出し坊や」の存在感は、

ハンパ無し(笑)

本堂

お墓参りの前に、

まずは本堂参拝へ。

橋本左内の菩提所、善慶寺と同様、

ここも空襲が酷かったようで、

本堂はコンクリでの再建です。

柴田勝家公・お市の方の墓

本堂の右手すぐの所に

お墓はあります。

墓域。

墓石手前の梅の木に

何やら案内があるので、

確認して見ます。

柴田勝家公が愛用したもので、

空襲で焼けたものの、

その後、不思議にも

発芽したと書かれています。

訪問したのは4月11日。

福井市は桜が満開の時期で、

梅の季節ではありませんが、

何と一輪花が咲いています。

きっと柴田勝家公が

僕たちを歓迎してくださったのでしょう!

正面。

案内を書き出すと

以下になります。

「柴田勝家は、尾張

(現在の愛知県)生まれの武将で、

織田信長の重臣である。

天正3年(1575)に信長が

越前の一向一揆を滅ぼすと、

越前の内49万石を与えられ、

北之庄に壮大な天守閣を持つ城を築いた。

合わせて一乗谷から

城下町を移転させるなど、

今日の福井市街地発展の礎となった。

信長の死後、後継者をめぐって

羽柴(豊臣)秀吉と対立すると、

同11年(1583)賤ヶ岳の戦いに敗れ、

北之庄城にて妻市の方と共に自害した。

勝家は、

西光寺9代真誉上人に自らの死後の供養を

懇請したと伝えられており、

西光寺を菩提所に定めた。

毎年4月24日には

2人の命日法要が営まれている。」

墓の前へ。

こちらの案内には、

「慶長年間(1596〜1615)

山中山代の守長俊の創建によるもので

勝家、お市の方、勝豊

(勝家の甥で丸岡城城主)及び

勝家の一子

作次郎の墓が合祀されている」

このように記されています。

参拝。

賤ヶ岳の戦い前に、

長浜城主だった勝豊さんは、

勝家を見限り、秀吉に降ったのに、

今では勝家さんと仲良く

同じ屋根の下にいらっしゃいます・・・

戦国を「生きる」とは、

こんなものなのでしょう・・・

里程元標りていがんぴょう

お墓向かって右前に建つのが、

「里程元標」という昔の道標です。

由来を要約すると

「勝家公が築いた九十九橋は、

世に半木半石の奇橋と知られ、

南側半分は石材、

北側半分は木材を使用して造られた。

これは水流の強弱や

軍路上の策とも考えられる。

新たな鉄骨橋となった際、

その橋桁で里程元標を作成し橋に建てたが、

後に勝家公の遺徳を顕彰するため、

菩提所である

当寺で保存することになった。」

このようになります。

九十九橋は柴田神社の境内にも

石橋部分が保存されていましたので、

やはり勝家公と言えば、

「橋」なんでしょうね!

石仏

最後にエントランス近くの石像物へ。

江戸時代以前の建立と見られる

お地蔵様や不動明王様に参拝。

南無阿弥陀仏と刻まれた石碑と石仏。

ここまでで柴田勝家さんの

お墓参りは完了し、

次なる目的地、

足羽神社あすわじんじゃへと向かいます。

 

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