筑紫神社(福岡県筑紫野市)前編
延喜式神名帳
日本三代格式と言われる
弘仁格式、貞観格式、延喜格式。
これらは律令の補助法令ですが、
現代に完全なものが残っているのは
延喜(えんぎ)格式のみです。
この格式は、平安時代、
醍醐(だいご)天皇の命により
編纂されたもので、
格式の中の「式」(延喜式)の部分は、
50巻から成り、そのうち
巻1〜巻10には、
神祇式(神社にまつわるもの)が
納められていて、
その中でも巻9、巻10には、
当時の官社、要するに朝廷が
重要と認めた2900社近くの
神社のリストがあります。
これが延喜式神名帳
(えんぎしきじんみょうちょう)と
呼ばれる、
言わば神社の格付けのようなもので、
一種のステータスにもなっています。
当たり前ですよね、
今現在、境内社など
合祀された神社を含めると
30万社ほどある神社の中で、
特別に千年以上前からの
歴史が裏付けされ
朝廷からも
「あんたの所は大事です」と
お墨付きが貰えているのですから。
もちろん延喜式に載った神社の
全部が現在も存在しているとは
限りませんし、神社名も変わっていて
延喜式に載っていた○○神社は
今の○○神社と推定されると
されるものも多くあります。
いずれにしても
「お墨付き」「肩書き」
とは、人々に分かり易い
看板の一つであるのは、
間違いないでしょう。
最も、こんなお墨付きや肩書きとは
全く無縁で繁栄している神社も
全国には沢山ありますから、
やはり結局、繁栄は努力次第
なんでしょうね(笑)
そして、
延喜式編纂、古今和歌集の編纂、
国史「日本三代実録」の完成など
多くの業績を残し、
「延喜の治」と賞賛される
醍醐天皇ですが、その政治の中で、
大きな汚点と言われている
菅原道真を太宰府に追放した事件が
あったからこそ、
その後発祥した福岡の太宰府天満宮が、
延喜式などの肩書きも無く(笑)
学問の神様として、全国的にも有名になり
京都の北野天満宮、
東京の湯島天神(天満宮)など
その総本宮としても
今、大繁栄しているのは、
これも元をたどると、
醍醐天皇の功績(裏功績?)
なのかも知れません(笑)
筑紫神社へ
長々と延喜式の話をしたのは、
筑紫神社が延喜式の
式内社だからです(笑)
筑紫宮の文字。
何と言ってもこれは、外せませんね。
「太宰府天満宮参詣道」の石柱。
やはり菅原道真公、太宰府左遷の
お陰はここにもありますね。
醍醐天皇、グッジョブ(笑)
昔の手水舎?井戸?
ここからは森の中。
素敵な社叢です。
木漏れ日の中、
清々しい雰囲気ですが、
実は気温は33度はありました(笑)
四海皇風浴、千秋聖歴長。
意味はわかりません。
木々からのぞく青空。
石垣もあります。
阿形の狛犬。
吽形の狛犬。
阿形の顔アップ。
このひょうきんさ、
製作した石工さんの
ユーモアを感じますね!
吽形は、うん○を我慢しているみたい(笑)
ようやく神門が見えて来ました。
文政三年奉納の常夜灯。
約200年前のものです。
こちらは、さらに古く、
元禄12年(西暦1699年)の建立。
約300年前ですね。
「筑紫大明神」の神額。
江戸時代までは「大明神」の
名前は多くの神社で使われていました。
もうすぐ神門。
神門前の狛犬。
「山北 石工、白石林太」
山北とはどこなのでしょう?
鳥栖市の香椎宮で偶然見つけた
天草の石工のこと以来、
石工の出身地が気になる
今日この頃です(笑)
吽形も牙むき出しで、
なかなかの秀作です。
神門から見た拝殿。
手水舎。
自然石をくり抜いた、
素敵な手水鉢です。
慶應三年(1867年)の奉献でした。
大政奉還の年ですね…。
屋根付の立派な神社のご由緒書き。
御祭神は、
筑紫の神、坂上田村麿、玉依姫命。
拝殿にて参拝。
シンプルな唐破風。
手前には「國號起源」の神額。
筑紫という名前の起源ということでしょう。
また、奥の筑紫宮の神額は、鳥居と同じく、
元禄12年(1699年)の奉納です。
そして拝殿周辺の動画も撮りました。
次に本殿に回ります。
左が拝殿、右奥が本殿。
本殿の建立は、1712年。
貝原益軒の愁訴(懇願)により
黒田藩主から資材が、提供され
再建に至ったそうです。
一応(笑)ここでツーショット。
御朱印も授与してもらいました。
やはりここにも「國號起源」が
フューチャーされていますね!
まだまだ見どころが多い筑紫宮、
次回、後編に続きます。