出羽三山神社(羽黒山)天宥社

 

iPhone封印

出羽三山神社では、

土砂降りすぎて、

なんとiPhoneの充電端子に

水が入る事態に(汗)

生活防水機能はあるはずと思っていたら

思わぬ弱点があったのです。

という訳で、

一旦、iPhoneは封印し、

緊急事態用に装備している、

「デジカメ」を登場させる事に。

ほぼ望遠用オンリーで使っているデジカメ、

思わぬところで大活躍でした!

現在・過去・未来

何十年も前の渡辺真知子の歌を

思い出すフレーズですが、

最近この歌、

アバンギャルディのダンスによって、

平成世代も知っているかもですね。

まあ、それとは無関係に、

出羽三山は、

現在・過去・未来の山と言われ、

最初に行くのが、現在の山

「羽黒山」というわけです。

出羽三山の参拝は、

羽黒山、月山、湯殿山の順が

一番ご利益あるようで、

松尾芭蕉も同じ順番だったそうです(笑)

有料道路を通って駐車場へ。

大雨の影響なのか、

駐車場はガラガラで停め放題(笑)

羽黒山のご案内。

駐車場から三神合祭殿までは、

歩くには楽勝な距離ですが、

なんせ大雨の洗礼を受けつつなので、

楽勝とは行かないかな(笑)

蜂子皇子墓

参道入口は駐車場の目前。

真新しい燈籠。

八咫烏が描かれていますね。

三つの参道のうち真ん中は緊急車両専用。

僕たちは向かって左側の参道に入り、

まずは参道の途上に位置する

蜂子皇子墓を目指します。

霊験感満載でいい雰囲気。

雨に似合うアジサイ。

お墓に到着。

「崇峻天皇子 蜂子皇子墓」

このように書かれ、

宮内庁により、

ここが墓所比定地となっています。

Wikipediaを要約すると

「崇峻天皇5年(592年)11月3日に、

蜂子皇子の父である崇峻天皇が

蘇我馬子により暗殺されたため、

馬子から逃れるべく蜂子皇子は

宮中を脱出して丹後国由良

(京都府宮津)から

海を船で北へと向い

現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、

八乙女浦の岩の上で、八人の乙女が

笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、

皇子はその美しさにひかれて、

近くの海岸に上陸した。

八乙女浦という地名は、

その時の八人の乙女に由来する。

蜂子皇子はこの後、

海岸から三本足の烏

(ヤタガラスか?)に導かれて、

羽黒山に登り羽黒権現を感得し、

出羽三山を開いたと言われている。」

このようになります。

また、出羽三山神社のサイトにも

「三本足の霊烏に導かれて、

道なき径をかき分けたどりついたのが

羽黒山の阿古谷(あこや)という、

昼なお暗い秘所____。

蜂子皇子はそこで、

来る日も来る日も

難行苦行の御修行を積まれ、

ついに羽黒の大神・イツハの里の国魂

「伊氏波神(いではのかみ)」の

御出現を拝し、さっそく羽黒山頂に

「出羽(いでは)神社」を

御鎮座奉られた。」

このようにありますので、

蜂子皇子墓は、出羽三山神社にとり、

特別に神聖な場所なのでしょう。

杉の木に守られたお墓へ。

参拝。

天宥社

天宥社には、

出羽三山苦難の歴史が

詰まってることが

Wikipediaにより判明しました。

「江戸時代以前、

出羽三山は真言宗であったが、

江戸時代の初期、羽黒山の宥誉別当が

徳川将軍家の庇護を受けるために、

将軍家に保護されていた

比叡山延暦寺にあやかり、

羽黒山・月山は天台宗に改宗した。

その際宥誉は天海上人の弟子となり、

師の名を一字もらい天宥と改名した。

天台宗への改宗に湯殿山は反発し、

湯殿山派のみ真言宗となった。」

この後、

天宥は改革反対派から訴えられ、

伊豆諸島の新島に流され

そこで生涯を終えています。

頑張った人あるあるのパターンですね。

本殿前の石燈籠は、

新島から寄進されたもので、

天宥の魂を羽黒山に

帰そうとしたのかも知れません・・

参拝。

神額には、

「源忠明」とあります。

Wikipediaで調べてみると

庄内藩主、酒井家21代当主、

酒井忠明氏の謹書でした。

松尾芭蕉像

天宥社のすぐ傍に、

松尾芭蕉像があります。

ここに芭蕉さんがいらっしゃるのは、

天宥さんと大いに関係があるからです。

山寺芭蕉記念館のサイトには、

以下のように記されています。

「羽黒山を訪れた芭蕉は、

天宥法印の追悼の作品を

作るように依頼された。

芭蕉は天宥の業績を讃え、

一転流罪にあった無念を思いやっています。

句「其玉や羽黒にかへす法の月」は、

「羽黒山に差す月光が仏法の力となって、

天宥法印の魂を羽黒に

戻してくれることであろう」

という意味です。

(中略)

署名も「芭蕉庵桃青」と正式の名乗りです。

芭蕉が天宥の運命を心から惜しむ気持ちで、

この句文を記したことが伺えます。」

芭蕉さんの予言?

燈籠によって現実になったかも

知れません・・・。

平家追討に頑張ったけど、

悲運の最後を遂げた木曽義仲を思い、

義仲寺にある義仲の墓の隣に

自身のお墓を建てたほどの松尾芭蕉。

この心を尽くした追悼文は、

そんな悲運の人を思いやる

心優しい芭蕉の真骨頂とも言える

業績の一つでしょう。

ずぶ濡れの芭蕉さん(笑)

柔和なお顔で、

お人柄がよく表れた秀作です。

奥の細道で詠んだ芭蕉の句碑。

「涼しさや ほの三日月の羽黒山」。

これもいい句なのでしょうが、

天宥さんへの句の方が

僕には響くかな(笑)

(続く)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.