屋島スカイウェイ(高松市)
義経進軍路のおさらい
徳島県から義経の足跡を追い、
僕たちも遂に屋島へ上陸!
ここで、改めて義経御一行様が
屋島まで辿った道をおさらいです(笑)
大阪の「八軒家船着場」を出発。
義経さんの時代は、
この地図の大阪城なんてありませんし、
その前に建っていた石山本願寺も
痕跡すらありませんから、
ここらは村みたいな場所だったのでしょう。
追い風(暴風)に乗って、
通常3日かかるところ、
わずか6時間の船旅(笑)で
徳島県の小松島に着岸。
勢い付いている時って、
得てしてこんな幸運が
舞い込みますね(笑)
そして、
陸路で怒涛のように屋島へ。
赤丸が源平合戦が行われた区域で、
青線がその「現場」を眺望できる。
屋島スカイウェイです。
平家側は義経御一行様が、
海側から攻めてくるものと
思っていたらしく
背後の東側陸路からの攻撃に
驚いたようです。
敵の裏をかくのが戦いの定石ですが、
平家の人たちには、
「まさか背後から来ないよね・・きっと」
そんな希望的観測が、
あったかも知れません。
弱っている時って、
何かしらまずい判断を下すのが
人間ですし、
仕方なかったのかな・・。
源平屋島古戦場を俯瞰
実際の戦いの場を散策後、
「屋島スカイウェイ」と名付けられた、
快適ロードで、
屋島頂上付近の屋島寺を目ざします。
屋島スカイウェイのスタート地点。
少し走ると、古戦場を俯瞰できる
素晴らしい展望スポットを発見。
向かって左側(瀬戸内海側)の景色。
正面の景色。
向かって右側。
義経の身代わりとなって
佐藤継信が討死したり、
義経が弓を流され、
それを慌ててすくい上げたり、
屋島の戦いのクライマックスが
凝縮された場所です。
左側から一気に動画で撮影。
少し行き、
屋島山上観光駐車場に到着。
これは、
歓迎ムードしかありません(笑)
そして中でも重要なものがこちらです。
「屋島ドライブウェイ開発者
眞鍋康男 顕彰碑」
僕たちが古戦場を俯瞰でき、
ここに楽勝で来られたのは、
ぜ〜んぶこの人のお陰なんですよ!!
「開発の目的」を読むと、
眞鍋さんの慧眼に驚かされます。
以下、少し抜粋すると・・
「事業の執行を必要とする理由」
「屋島の観光客は、
昭和30年度は68万人、
然るに輸送機関はケーブルカーのみ、
繁忙期にはケーブル待ちに、
永きは3時間を空費している。
かかる状態を放置すれば、
屋島観光客は逓減し。
観光香川の大なる損失となるは
火を見るよりも明らかである。」
このような考えから
道路を作れば観光客200万人と仮定し、
屋島スカイウェイが出来てから、
20年後、その仮定は確定となったのです。
1964年の東京オリンピックから
モータリゼーションが
進んだと言われる日本において、
そのはるか前から
こんなことを考えて実行するなんて、
「現場主義」の凄い人ですね!
おさらいのおさらい(笑)
駐車場から屋島寺への途中、
目を見張るような絵巻に遭遇。
源平合戦図屏風の
「義経の弓流し」の部分です。
建物側面には、
屋島の戦いの「有名どころ」が
プロフィールと共に紹介されています。
弓を流してしまい、
それを拾っただけで、
有名になった義経さん。
義経の命令で、
「いやな役が回って来たな・・
もし的に当てられなかったら
切腹か・・・
めっちゃ痛いだろうな・・・
なまじっか、弓の名手なんぞ
ならなければ良かった・・」
そう考えたかも知れない(笑)
那須与一さん。
大将、義経に向かって来た矢を
自分の体で受け止め、
身代わりとなって討死した佐藤継信さん。
平家の豪傑、景清と源氏の十郎の
壮絶な一騎打ちのお話。
鉄砲が無かった
古き良き時代(笑)の逸話ですね。
義経さんの愛馬にして、
佐藤継信さんの弔いの代金として(笑)
僧侶に渡されたお馬さん、太夫黒です。
義経軍の進軍図。
時系列での説明。
2月18日 大阪から徳島の小松島に上陸、
すぐさま屋島へ進軍。
2月19日 屋島の戦い開始、
2月20日 那須与一が
無事扇の的を射抜き、ホッと一息、
義経さんも流された弓を引き揚げ、
こちらも同じくホッと一息(笑)
2月21日 平家が海から奇襲をかけるも
配下の裏切りなどもあり、夕方西方へ遁走。
ここまでで、
おさらいのおさらいは終了です(笑)