吉田城(豊橋市)外観編

切れない木
吉田城には景観的には邪魔(笑)でも
切るのが憚られる「木」があります。
万物に神が宿ると考えるのが、
日本古来からの考え方・・・
そんなDNAを受け継いだ現代人、
やはり、
「切ってはいけない木」と考えて
あえて残しているのでしょう。
二つの遺構
実際に巡った順番は、
「吉田城三の丸口門〜
再び吉田城に戻り、
本丸、鉄櫓(くろがねやぐら)内覧、
その後、鉄櫓周辺の散策」
このようになりますが、
ここでは吉田城を
一気に攻城した体で書いています(笑)
吉田城跡地は豊橋公園として整備され、
美術博物館や陸上競技場、
野球場などが集約され、
それにプラスして、
陸軍の駐屯地時代の遺構もあり、
「お城めぐり時々軍事施設巡り」
と言った具合になります(笑)
「歩兵十八聯隊」遺構などの案内。
歩兵十八聯隊は明治20年からここに駐屯し、
数多くの戦いに従事し、
昭和19年6月、サイパン・グアムで
玉砕(全滅)しています・・・
三の丸口門跡。
向かって右側には野面積みの石垣に、
大きな鏡石がはめ込まれています。
池田輝政(照政)時代のものかも知れません。
左側、歩兵十八聯隊の「歩哨所」には
めっちゃ目出す歩哨が立っています(笑)
冠木門跡
まずは案内を確認。
「吉田城址」。
「今川氏配下の牧野古白が築城し、
その後徳川家康が奪取。
吉田城には酒井忠次が入り、
家康の関東移封で、
豊臣秀吉配下の池田輝政(照政)が入って
近世城郭にパワーアップ。
江戸時代には譜代大名が入り、
東海道の要としての役割を担った。」
端折ってまとめるとこんな感じかな(笑)
復元鳥瞰図を拡大。
川のほとりで水が豊富なのに、
内堀や本丸を囲う堀は
何故、全て空堀なんでしょう?
散策スタート。
二の丸口門跡。
冠木門跡に到着。
左側の櫓台石垣は、
二重になっていて、
恐らく岩村城などと同じく、
元からある石垣の劣化をカバーする為、
後から強化策として
積まれたものかと思います。
右側の石垣。
いきなり本丸には入らず、
ここから空堀に降りてみることに。
堀底ウオークスタート!
野面積みの古い石垣。
石垣は門の周辺部のみで、
その先は土の壁です。
これは先ほどの鳥瞰図でも
しっかりと描かれていましたね。
妻を入れて堀の高さを確認。
攻める側からして、
相当に厳しいかな?
なんて思いつつも
どうしても気になるのは
横向きなのに地面に手(枝)をつき、
反対側の枝を新たな「幹」として
「木の形」を形成している木です。
これを伐採しないのは、
冒頭に書いた理由かもですね。
反対側から撮影。
城巡りなのに、
霊木巡り(笑)に目的が変化しています。
堀の先は、
腰巻石垣です。
鉄櫓(くろがねやぐら)
堀底から無事生還し、本丸内へ。
門からは鉄櫓が見えています。
鉄櫓を背にして冠木門方面を撮影。
動画を撮影。
鉄櫓前に到着。
やはりここでも気になるのが、
櫓に覆い被さるように伸びた木ですが、
やっぱり、神が宿ってました(笑)
「とよはしの巨木・名木100選
豊橋公園のイスノキ」
「本市のイスノキの中では
もっとも大きい。
根張りが素晴らしい」
「推定樹齢300年以上」
このように書かれています。
根張りを囲い、
大切にされていて、
これじゃ景観云々は言えませんね(笑)
改めて櫓を中心に撮影。
豊川側から。
鉄櫓前を流れる豊川。
この豊川の上流にあるのが、
豊川(寒狭川)(左奥)と宇連川(右奥)の
合流地点に位置する長篠城。
長篠の戦いの前哨戦で、
天正三年(1575)5月6日、
武田勝頼軍は、吉田城まで南下し、
城を攻撃するなどの
陽動作戦を行なっています。
豊川側への枡形虎口。
虎口へ。
虎口内部。
豊川を背にして撮影。
櫓の下まで歩いてみます。
お〜これは渋い!
小さな石を積みさねた野面積みの石垣、
この素朴さがたまらんな〜(笑)
新旧石垣の境目。
川を背にして3種類の石垣を同時撮影。
櫓下が一番古く、次が一番手前、
そして、新しいのが、
真ん中の打ち込み接ぎで、
江戸時代のものでしょう。
「石垣の刻印」が売りの吉田城、
刻印はスルーしましたが、
見所はおさえたという事で
めでたし、めでたし(笑)
(続く)