豊前国府政庁跡(福岡県みやこ町)

 

二番目

奈良時代から平安時代にかけ、

日本全国に置かれた

地方統治の役所である国府は、

現在で言えば県庁のようなもの。

その国府の中で一番有名なのは、

宮城県多賀市にある

陸奥国府の「多賀城」でしょう。

ここは蝦夷(えみし)統制の

出先機関(鎮守府)でもあり、

城という名とともに、

日本100名城にもなっています。

逆に言えば、

僕は多賀城以外の国府は、

ほぼ知りません(汗)

そんな薄~い意識の中、

豊前国府跡を訪問した所、

実にわかり易い復元整備と

各所の案内のお陰で、

僕にとって二番目に覚えた

国府になったのです。

さて、三番目はどこになるのかな?(笑)

国府跡散策

国府のすぐお隣にある

国府の郷」という

地元の物産販売所には、

多くの人で賑わっていましたが、

こちらには、

僕たち二人以外には人がいなく

いい意味で国府跡を独占出来て

ちょっとラッキーでした(笑)

国府跡のエントランス。

「豊前国府政庁跡」

案内を抜粋・要約すると

以下になります。

「豊前国府は、

奈良~平安時代の地方都市で、

豊前国の政治・経済の中心地として

繁栄していました。

政庁の南方には官道が走り、

その南には奈良時代創建の

豊前国分寺があります。

政庁の南西に隣接する惣社八幡神社は、

平安時代に国司が参拝した

豊前国の惣社です。

豊前国府の政庁には

8~12世紀(奈良~平安時代)

官衙(役所)の主要建物が

建設されていましたが、

ここでは第Ⅲ期

(9世紀後葉~10世紀後葉)前半頃の

建物跡を中心に復元しています。

政庁は東西幅約79.2m

南北の長さ約105mを測る

規模と見られています。」

中門(基礎部分の復元)。

「中門跡」

案内を抜粋・要約すると

以下になります。

平城宮に代表される古代の役所は、

南側の入口に門が建てられていました。

豊前国府の政庁も同様に、

この場所から東西の長さ6.8m

南北の幅3.4mの

掘立柱建物跡が見つかり

「八脚門」という形式の門が

あったとみられています。」

東脇殿跡の復元。

「東脇殿跡」

案内を要約すると

「政庁の中央広場をはさみ、

東西両側には、

南北に長い建物がありました。

この建物は「脇殿」と呼ばれ、

ここでは東側の脇殿が見つかっています。

10世紀初めの東脇殿は

東西の幅が4.9m

南北の長さが38.4mもある

長大な掘立柱建物でした。」

このようになります。

正殿跡(基礎部分の復元)。

「正殿跡」

案内を抜粋・要約すると

「正殿は国庁(国府政庁)の中で

最も重要な施設とされ、

行政実務の他、これに伴う

儀式や饗宴が行われたと

考えられています。

これらの様子を物語る資料として、

実務関連では硯や

木簡(紙の代用とされた板状木片)

・墨書土器などがあり、

国庁跡と周辺からは

大量に出土しています。」

このようになります。

北東から見た国府。

「政治・軍事拠点としての豊前国府」

案内を書き出すと、

以下になります。

「「猫」が登場する国内最古の記録は、

日本霊異記にほんりょういき」という

説話集に納められている

奈良時代の「宮子郡みやこぐん(京都郡)」の

役人にまつわる説話とされています。

諸説ありますが、当時の豊前国府は、

その立地等から

「京都郡役所」の機能を兼ね備えていた

可能性も考えられることから、

この国府を舞台にした物語

という見解もあります。

また元号の「令和」の

典拠となった詩を詠んだ大伴旅人は、

大宰府に赴任する際、

この国府を経由して大宰府へ

向かったとみられるほか、

彼が「隼人の乱」鎮座に向かう際の

記録の中には豊前国府の国司

(現在の県知事に相当)との交流を

伺わせる記述を確認することができます。

このように豊前国府は、

当時の政権の中枢である畿内と

九州を結ぶ重要な窓口であり、

また政治文化の中心地として栄えた

宇佐・大宰府へのルート上に位置するなど、

豊前国府は政治・軍事的に

大変重要な拠点であったことが伺えます。」

これはレア情報GETですね(笑)

日本における最古の猫に関する記述が、

僕が住む福岡県にあったとは!

この事ひとつで、

二番目に知った国府でも、

気持ちは一番に昇格です(笑)

西脇殿跡の復元。

この前にある案内には、

豊前国府跡が、

開発の危機から救われたという

ストーリーが記されています。

「豊前国府の保存運動」

大型施設の建設計画が決まり、

住民が調査を請願し、

国が動いた結果、

貴重な豊前国府は破壊されず、

現在の姿があることが書かれています。

そう言えば、

佐賀県の吉野ヶ里遺跡

大規模開発の最中、

見つかっていますので、

やはり開発と発掘・発見は、

切っても切れないご縁があるようです。

西南から見た国府跡。

築地塀の復元建物。

築地塀ついじべい」(復元)

少し抜粋すると

以下になります。

「(前略)

古代の役所や寺院では、

回廊や築地塀・板塀・柵列などで

その敷地を区画しています。

しかし実際に発掘調査で確認された

築地塀を復元した例はまだ少なく、

平城宮跡(奈良県)や

讃岐国分寺(香川県)などで部分的に

当時の姿が復元されています。

豊前国府跡でも

今回代Ⅲ期後半代の

雨落ち溝の位置(左隣の築地塀)に

築地塀を復元しました。

この築地塀の復元方法は、

塀本体を三和土さんわど手搗てつ版築はんちくでつくり、

上部は本瓦で仕上げています。

大きさは基底部の幅が1.38m

高さが3.78m、

長さ2.4m分を復元しています。」

ミルフィーユのような版築構造が、

よ~くわかる逸品に

仕上がっていますね!

ミルフィーユのケーキが

食べたくなった所で、

豊前国府跡の散策は完了・・・

いや、

一つ忘れてました!(汗)

それは・・・

自撮りツーショット写真です(笑)

 

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