大楽寺(山口県防府市)

 

まさかの夏目雅子

野村望東尼の足跡を辿る旅・山口編」、

いよいよ望東尼さんのお墓近く、

防府市の大楽寺のお話ですが、

旅の前、大楽寺の境内を

Googleマップで調べていたら、

その北墓地に、

まさかの「夏目雅子の墓」を

発見したのです!

若い人は知らない女優さんでしょうが、

恐らく50歳位以上の人ならば、

「西遊記の三蔵法師役」だと言えば

即、理解できるかと思います(笑)

大楽寺配置図にも

「西山家 夏目雅子墓」と掲載されていて、

迷う事なく行きつけます。

もちろん僕たちもお参りしました。

やはりこれも望東尼さんの導いた

ご縁というものなのでしょう・・・ね。

参道

下関市の東行庵から高速道路を使い、

途中迷いながらも

予定より20分遅れで到着。

駐車場も完備しています。

お寺あるあるの「お言葉」。

横参道口。

参道脇のお地蔵様にご挨拶。

山門から境内へ。

本堂

山門をくぐると

本堂は目の前です。

人の気配はないものの、

とてもウェルカムな雰囲気なので、

本堂内に入って参拝する事に。

本堂内部の周囲には、

達磨など禅宗的な絵画が

数多く展示されています。

華やかな天蓋。

そしてここで、

大楽寺さんの優しさを発見!

正座できない人への配慮、

「椅子」に座って

参拝が出来るのです!

その正座できない人とは、

実は僕のことなんですね(悲)

ここ数ヶ月右膝の調子が悪く、

かなり回復したものの

まだ正座はNG・・・

ということで、

椅子のお陰で、超快適な参拝が出来、

大楽寺さんには感謝しかありません。

とりあえず本堂前でツーショット完了。

境内散策

小ぢんまりした境内ですが、

大楽寺には、

多くの見所が凝縮されています。

本堂を背にして山門に向かい、

まずは右横の石仏へ。

「足王権現大菩薩」

「足の悪い人は おまいり下さい」

これには妻も

「あんたの事やん!

しっかりお参りせんとね」

なんてちょっと真剣に言ったので、

僕も真面目にお参りしました。

足王権現大菩薩さま、

よろしくお願いしま〜す!

これじゃ、真面目じゃないか?(笑)

次に門の反対側の六地蔵に参拝し、

奥の梵鐘へ。

「防府市指定有形文化財(工芸品)

大楽寺の梵鐘

指定 昭和五十九年十一月二日」

「この梵鐘は総高116.2cm、

口径64.5cmの中型の梵鐘で、

萩藩水軍の本拠地である

三田尻御舟倉の時鐘として鐘楼に架けられ、

出勤する人々に

出入りの時間を知らせました。

銘文によると、

安永五年(1776)十一月二十七日、

萩藩七代藩主毛利重就が

牟礼での狩りの際に鋳造所を訪れ、

梵鐘の鋳造作業を見学しました。

藩主が鋳造の場に臨む事は珍しく、

工人は一同欣然として日頃以上に力を尽くし、

新鐘を完成させたとあります。

御舟倉の廃止後、

北側に隣接する専称寺

(現:専光寺)に置かれました。

昭和十五年(1940)末まで

地区の時鐘として使用され、

鐘の音は遠く海まで響き

地区の名物だったといわれています。

そのためか、

太平洋戦争中の供出を逃れるという

運にも恵まれました。

梵鐘を鋳造したのは、

三田尻を本質とする郡司木工允信規です。

信規は江戸時代の萩藩において、

鋳物師や砲術家として活躍した郡司家の祖、

郡司讃岐の曾孫で讃岐次男の養子となり、

延享四年(1747)〜

享和三年(1803)の

半世紀以上にわたり梵鐘・半鐘・鰐口など

数多くの作品を残しました。

なお、銘文を記した吉田文献は

三田尻警固方の士で、

萩藩の藩校明倫館で教えていましたが、

務めの傍ら子弟の教育にあた理、

安永八年(1778)

越氏塾の再造に参画、

寛政元年(1789)には

越氏塾の督学に進んでいます。

また、

寛政四年には毛利重就の遺命を持って、

越氏塾の重修にあたりました。

郡司家の中でも名工と言われる

鋳工の作例として、

また今日伝わる

三田尻御舟倉の遺物として希少な存在です。

平成二十六年八月

防府市教育委員会」

梵鐘一つでここまで詳しく

解説してくれるとは、

驚きかつ大きな喜びですよ!

金属供出を免れた幸運な梵鐘、

あやかりたいものですね!

鐘楼。

250年の歴史を感じさせる

堂々たる風格で、

今もって現役で使われています。

桜の鐘木もまた渋い!

鐘楼から見た境内。

「毛利英雲公分骨廟」

以下、案内全文です。

「萩藩の歴代藩主の中で、

最も防府と結びつきが大きい

第七代藩主・毛利重就公

(号:英雲公)の分骨廟です。

重就は、享保十年(1725)

萩藩の支藩である長府藩主・毛利匡広の

十男として生まれますが、

兄が次々と早逝し、

享保二十年(1735)、

長府藩第八代藩主として家督を相続します。

宝暦元年(1751)には、

さらに本家にあたる

萩藩主・毛利宗広が早逝し、

世嗣がないことなどのため、

萩藩第七代藩主となります。

重就は、藩の財政を改革するため、

防府の開発に力を入れ、

干拓によって土地を広げると、

新しく田を作ったり、塩田を築いたり、

産業の振興を進めました。

他にも、塩の積出港として

中関を発展させるなど、

防府の地に多くの功績を残しました。

天明元年(1781)、

徳川家治の嗣子が徳川家斉と改名したため、

名の読みを”しげなり”から

”しげたか”に改めています。

重就は、藩主を息子に譲った後、

家族とともに三田尻御殿と呼ばれた

三田尻御茶屋に移り住み、

寛政元年(1789)に亡くなるまでの

8年間を防府で過ごしています。

享年64歳。

墓所は萩市の東光寺

(歴代藩主の菩提寺)にあります。」

僕たちは以前、

三田尻塩田記念産業公園」で、

塩田を体験しましたが、

その時の案内に、

「塩田の広さは天明年間

(1781〜1788)の末に

350ヘクタールに達し、

塩は山陰、北陸、北海道に移出され、

三田尻塩の名は全国に

知られるようになりました。」

このように記されていましたが、

これが丁度、重就さんの時代と

重なりますので、

やはり相当有能な藩主だったに

違いありません。

こちらはその時、

塩田体験をした妻です(笑)

この施設、

塩田の全てを見て、知って、体験できる

かなりの優れものですから

防府に行かれる方には、

かなりおすすめですよ!

「やすらぎとしあわせの願い平和観音さま」

「戦争犠牲者の鎮魂を願って、

ここ旧千体英霊観音堂跡地に、

多くの皆さま方の浄財をえて

戦死病没者の佛体と、合祀、

お位牌を納めて

「平和観音さま」を建立しました。

平和の礎となられた方々の冥福を祈り、

平和を誓い、

やすらぎとしあわせを願っての

観音さまです。

どうぞ観音さまのお慈悲と

ご加護をお受け下さい。

平成七年九月吉日

大楽寺平和観音奉賛会」

この案内の中で、

「平和の礎となられた方々」

この部分、心に刺さります・・

まさにその通り、

今の平和は当たり前じゃ

ないのです・・・

参拝。

平和観音さまの肩に

ちょこんと止まったハトちゃん、

癒されますな〜!

夏目雅子の墓

平和観音さまのすぐ横から、

北墓地へ繋がる通路があります。

真っ直ぐ行くと奥に見えてくるのが、

夏目雅子のお墓です。

墓誌には、

「雅月院梨園妙薫大姉

昭和六十年九月十一日

西山雅子 芸名女優 夏目雅子 二十七歳」

このように記されています。

偶然ですが、

先に東行庵でお参りした高杉晋作も

享年は同じ満二十七歳・・・

偶然なのか、必然なのか、

何かに秀でて光輝くものは、

短期間に人の何倍ものエネルギーを使い

早々に新たな世界へと

旅立つのかも知れません・・・。

 

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