猿猴橋(広島市南区)
歩く事を楽しむ
先日、
妻と二人で自宅近所を歩いていたら
僕が通勤時に
いつも通る歩道の生垣の中に、
一本の黄色い菖蒲を妻が見つけました。
水辺でもないのに、
何で菖蒲がここに咲いているのか?
ちょっと不思議でしたが、
歩くということは
こんな発見もあるのです・・・。
(僕はずっと見過ごしていましたが)
そして今回の広島の旅、
歩いたからこそ出会えたのが、
橋本町の厳島神社と、
今回の猿猴(えんこう)橋です。
「歩く事を楽しむ」、
通勤途中であったとしても
常にそんな気持ちで歩けば、
いつしか僕も黄色い菖蒲を
見つける事が出来るかも知れません(笑)
江戸時代から続く橋
朝7時30分頃、
広島ワビサビホステルから、
日産レンタカーを目指してスタート。
途中、厳島神社を参拝し、
さらに歩くと、
正面に広島駅が見えてきます。
横断歩道の真ん中から撮影(笑)
今はこの広い駅前大橋がメインですが、
江戸時代には、
今回たまたま渡った猿猴橋が、
広島城下に入る唯一の橋であり、
近代になっても主力として
使われていたそうです。
橋の手前に建つモニュメント。
「モニュメント(記念碑)の由来」を
書き出すと、
「1926年(大正15年)に
改築された猿猴橋は、
親柱に吉祥を意味した
鷲が羽ばたく華麗なる姿であったが、
1943年(昭和18年)
「金属供出令」により、
橋上の金属装飾部分を国に供出された。
2007年(平成19年)地元民は、
石部のみの橋となった現橋を憂い、
橋の復元運動に立ち上がった。
この復元運動は、
広島市が猿猴橋の
復元を英断した契気となった。
その記念として、
親柱の鷲をモニュメントとして
設置したものである。
2015年(平成27年)3月26日
猿猴橋復元の会」
このようになります。
また、橋の対岸にも
幾つかの案内があるので、
まずはそちらを確認してみます。
「西国街道と猿猴橋」
内容を抜粋すると
「西国街道は、江戸時代の
広島藩内の山陽道の呼び名で、
五街道に次ぐ規模を誇りました。
古代から中世まで、京都と太宰府を結ぶ
唯一の大路として文化の大回廊でした。
江戸開府後は脇街道となりましたが、
西国を結ぶ重要な街道として
宿駅や一里塚、街道松が整備されました。
(後略)」
「猿猴橋は、16世紀末の
毛利時代に木橋として架けられ、
西国街道の要衝に位置していたため、
長く陸上交通の
重要な役割を果たしてきました。
橋名の「猿猴」とは、
広島地方でサルに似た河童のような
想像上の怪物のことを言い、
洪水のたびに人々を川に引きずり込む
猿猴が住む川として、
川や橋の名前に使われました。
大正15年(1926)に
現在のコンクリート橋へ
架け替えられた猿猴橋は、
中国一の美しさを誇る橋でした。
(中略)
広島城下に入る際、
最初の橋である猿猴橋に、
栄華、幸運を意味する「吉祥」の象徴として
二様の鷹を配置しました。
この二様の鷹や高欄の猿猴は、
向かって右側が口を開けて「阿」、
左側が口を閉じて「吽」で
「阿吽」を表しており、
魔除けとしての意味も
あったと考えられます。
(後略)」
このようになります。
先程の案内では「鷲」でしたが、
ここちらは「鷹」となっていますね。
まあ、そこはご愛嬌という事で(笑)
阿吽の鷹(鷲)
高欄の阿吽の猿猴。
二匹で桃を持っているのは、
日本神話で桃が魔除けとして
描かれていたり、
承久の乱で桃を配って天武天皇が
勝利した「桃配山」などの故事や、
関ケ原の戦いでは、
その縁起の良い桃配山に
戦いに勝利した事なども相まって、
「桃=魔除け、縁起が良いもの」
との意識が作者には
あったかも知れません。
何だか、
今、桃が食べたい気分です(笑)
斜めから撮影。
素晴らしい橋に見惚れてしまいます。
今までの案内と重なりますが、
ここにも詳しい案内があります。
その一部を拡大して・・・
金属供出前の猿猴橋。
金属供出後、原爆投下後の猿猴橋。
欄干の金属部分が取り去られ、
石に変更されているのが、
良く分かりますね。
頼山陽の漢詩。
(大意)
「猿猴橋のたもとは夕もやが生じ、
すでに両岸には街灯が
ともっているのが見える。
同行の人よ、
私の足どりが早いのを怪しまないで欲しい。
母が眠りにつかないうちに
家に着きたいのだ。」
(解説)
「文政八年(1825)十月六日、
頼山陽(当時46歳)が京都から広島に
帰省し、広島城下東端の猿猴橋に
さしかかた時に作った詩です。」
頼山陽、母思いの良い人だ~(笑)
川岸まで降りて撮影。
「猿猴橋通り」の銘版。
金色が橋の誇らしさを
感じさせてくれますね!
ホテルから日産レンタカーまでの道を
ただ歩くだけなのに、
途中の見所が多すぎて、
僕達はなかなか目的地に
たどり着けません(笑)