福岡城ピクニック・予習編・天守台

 

立花山城+名島城=福岡城

関ケ原の戦い後、

黒田長政は52万石の大名として

筑前名島城に入り、

その後、

福岡城築城に着手しています。

石垣の石材などは、

大友家の配下として、

立花宗茂が居城としていた立花山城

豊臣大名の小早川隆景秀秋の居城、

名島城からも転用されていますので、

「三城混合石垣」というわけですね(笑)

名島城から見た立花山城。

立花山城に残された石垣。

この石はちっちゃ過ぎて、

転用されなかったのかも(笑)

立花山城からは福岡市が一望でき、

戦国時代、ここを

筑前支配の拠点とした意味が、

よく分かりますね。

ズームすると名島城の全景も見えます。

(石垣を福岡城に転用したのと

明治以降の埋め立てと宅地開発で、

ほぼ原型をとどめていませんが・・)

名島城本丸跡に建つ

「小早川隆景公

名島城入府四百年記念」碑。

この隆景さんが寄進したのが、

「敵国降伏」の扁額で有名な、

筥崎宮の楼門です。

文禄三年(1594)建立なので、

朝鮮出兵の勝利祈願としての

寄進だったかも知れません。

ちなみに

この奥に鎮座する本殿は、

大寧寺の変で、家臣の陶晴賢に滅ぼされた

大内義隆の寄進で、

筑前の支配者たちは、

勝利の神様、筥崎宮への愛が

相当に強かったのでしょう(笑)

小・中天守台

扇坂御門〜本丸表御門などを巡り、

次は天守台群へ。

まずは、小・中天守台から。

以下案内文です。

「福岡城には大天守の東側に、

小・中天守を思わせる

櫓が建てられていました。

大天守台と小・中天守台を形成する石垣は、

本丸を南北に分断した

全国的にも珍しい構造になっており、

南側からの敵の侵入を防ぐ

狙いがあったと考えられます。」

凄さがよ〜く理解できるCG再現。

それにしても小・中天守でさえ、

これほどまでに大規模だと

大天守はいかほどだったのかと

想像を逞しくしてしまいます(笑)

実際の小・中天守台。

隅石も算木積みではなく、

全面がゴツい野面積みで、

古い石垣であることが

わかります。

小・中天守台から大天守台を望む。

天守台

次に天守台へ。

天守台北西側から。

ここも小・中天守台と同じ

野面積みなので同時期に積まれた

石垣かと思います。

江戸城は別格としても

関ケ原の戦い以降は、

石を荒削りにした打ち込み接ぎや、

美しく加工して面を合わせた

切り込み接ぎが多用され始めていますが、

ここで伝統技術が使われたのは、

立花山城と名島城からの石垣流用のため、

その「基準」に合わせたのが

理由の一つかも知れません。

この辺りにも

豊臣大阪城をはじめ、名護屋城など、

多くの縄張りを担当した

築城名人、黒田官兵衛孝高の

城造り魂を感じます。

天守台へ。

「鉄御門跡」の石碑。

お邪魔しま〜す!

段上、西北から見た天守台。

埋門うずみもん跡」

大きさの比較のため妻登場(笑)

天守台西側。

野面積みの石垣、

素朴感満載でいいですね!

天守登城口へ。

天守台には、

礎石らしきものもあります。

天国への階段みたい(笑)

案内には

「近年、細川家の古文書から

「福岡城の天守閣は一時期

存在していたが取り壊された」

という説が出ましたが、

黒田家の古文書の中には

天守閣を確定する資料は残っておらず、

天守閣の存在は今も謎のままです。」

このように書かれていますが、

今現在では新たな資料も発見され、

「天守はあったが取り壊された説」が

濃厚のようですね。

CG画像。

天守東側から見た

中・小天守と福岡の町。

天守台から見た、

現在の東側の景色。

こちらは北側。

春になるとこんな感じで、

桜三昧となります。

西側の眺望がまた素晴らしいのです。

撮影するとこんな感じですが、

実際に見るとこの数倍の

素晴らしさがあります。

ズームして

福岡タワー、ドーム球場などと

その先に見える能古島を撮影。

天守台の最後はこれで決め!(笑)

(続く)

 

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