静御前の墓(淡路島)
墓に呼ばれる妻
源義経の愛人(側室)である静御前、
彼女は鎌倉での幽閉を解かれ、
その後、義経の死を知り、
仏門に入り、「再性」と名を変え、
西国に行き、
その地で亡くなったとする説が
いくつかあるようで、
その一つが、淡路島に建つ、
静御前と源義経の墓です。
この墓の存在を知ったのは、
車中から妻が偶然に
静御前のお墓の案内を見たからです。
畠山重忠など、
何故か妻はお墓に呼ばれるタイプで、
高野山の奥の院に行った後、
不思議な出来事が起きて以来は、
特にその傾向は
強くなっている気がします(笑)
静の里公園
Google Mapの案内では、
少し違った場所に導かれ、
アナログ修正をかけて(笑)
静御前の墓がある
「静の里公園」に無事到着。
正面入口。
僕たちは側面に位置する
駐車場からの入口を使って中へ。
妻の名前と全く同じ漢字の
「靜」(左の部首は青)に
かなり親近感を覚えます。
樹形が見事なクスノキの奥に
目指すお墓はあります。
静御前の墓
ここはお寺でもなく、
墓地の区画でもなく、
ごく普通の公園ですが、
メインはやはり静御前の墓。
一人の墓としては、
驚くほど綺麗に整備されています。
手水舎。
自然石の手水鉢。
透明な水が湛えられ、
柄杓でのお手水が出来、
目の前の池には
鯉たちが優雅に泳いでいます。
これだけでも
「静御前のお墓、
ホントに大切にされているな~」
と感じ入りますが、
手水舎にはさらなる感動もあります。
「幸せを呼ぶ鐘
ご自由に
お鳴らし下さい」
勝手な解釈ですが、
参拝に来たことを
静御前に知らせる意味も
あるのでしょう。
「靜」(部首は青)つながりで、
妻がひと撞き!
「静御前の墓」
案内を書き出すと
次のようになります。
「静御前は、その容姿麗しく、
世にかくれなき美人なり。
舞も当代屈指の名手にて、
治承三年(1179)以来、
源義経公の寵愛をうく。
義経公、兄頼朝公と仲違いあり、
鎌倉・鶴岡八幡宮に召出され、
夫との哀別離苦の嘆きを、
「しづやしづ
しづのおだまきくりかえし
昔を今になすよしもがな」
と舞い社壇一同を感涙せしめた。
没后、
一条中納言の荘園たりしこの地に葬す。
今日、静御前の墓に詣で祈れば、
縁遠き人、佳き良人を得、
懐妊の人、美貌玉の如き児を安産。
その上婦女、諸々の技芸に熟達す。
その効や、不思議なりとされている。」
お墓へのエントランス。
「泳ぐ金塊」の案内。
金塊が泳ぐのかな?
鯉の群れに目をやると・・・
金塊は見当たらないものの、
金鯉はいました(笑)
綺麗な虹が出たのは、
静御前の歓迎かも!
池の真ん中の島に
お墓はあります。
静御前の墓(手前)と
源義経の墓。
お墓の形は、宝篋印塔。
お二人に参拝・・・。
お墓の背後には、
古い五輪塔やお地蔵様が
並べられています。
お墓のすぐ横には、
滝が流れています。
静御前と義経さんは
この滝の音をBGMに
安らかなる日々を
送られている事でしょう。
お墓前の楠。
案内には、
「一條中納言能保卿子孫、
一條實孝公爵お手植えの楠です
昭和六年十一月十二日」
このように書かれています。
花壇 しづのおだまき
お墓の後は、
公園の正面入口の近くへ。
改めて正面入口から中に入ると
すぐ右にこんな光景が
見えてきます。
菖蒲園。
6月初旬ということで、
ちょうど満開を観ることができ
ラッキーでした。
そして菖蒲園の反対側には、
花壇が二つあります。
案内。
書き出すと次のようになります。
「源義経の愛妾、
容姿端麗・舞の名手の静御前が
義経の死後、再性尼と名を改め
一条能保の荘園この地志筑の庄で
義経の菩提を弔い
1211年11月7日、
47才で没したと伝えられています。
この花壇「しづのおだまき」Part1は
左側に肉厚植物で義経の勇気・強さを、
右側に低く枝垂れる植物で
静御前の思いや優しさを表現、
緑のリュウノヒゲで「おだまき」を、
色違いの小石で頼朝と義経の確執を表現。
Part2は再性尼として
この地で過ごした静御前の心情を
草花・椿(侘助)・池・メダカ等で
表現しました。
義経と静御前を
偲んでいただければ幸甚です。
平成24年2月
バーベナあわじ 会長 上田 治子」
「しづのおだまき」Part1
「しづのおだまき」Part2
今から10年前に造られたものですが、
ちゃんとメダカもいますね!
造るのは一瞬でも
維持管理というのが、
いかに大変なものかは、
過去に訪問した
多くの観光地でも体験してきたので、
元気に泳ぐメダカを見て
なんだかホッとしました(笑)