郡上八幡城(岐阜県郡上市)(2)

 

人柱

ここ郡上八幡城では、

「およし」という若い女性が、

「人柱」となったという伝承があり、

手厚く供養されています。

過去、僕がみてきた中で、

人身供養(生贄)としての

人柱伝承で多いと思われるのが、

「およし」をはじめ、

福井県丸岡城の「お静」、

愛媛県大洲城の「おひじ」など

「若い女性」ですが、

実際に人柱の人骨が発見(発掘)された

大分県日出ひじの案内に書かれていたのは、

「老武士」でした(笑)

若い女性ならずとも色んな人々が、

建物の安全を願い、

命を捧げてこられたのは、

やはり真実だったのでしょう。

石碑

天守近くには、

いくつかの石碑などがあります。

「南無妙法蓮華経」の石碑。

ここで戦った武士たちの

鎮魂でしょうか?

右側が「およし塚」、

左側が力石。

まずは、右から・・・

「およし塚(人柱およしの碑)」

「郡上八幡城改修の際に人柱となった、

神路村(現大和町神路)の娘

”およし”を偲んで建てられた石碑

城山の

露と消えゆく

人柱」

このように書かれています。

「力石」

以下、案内です。

「この二つの石は、

寛文七年(1667)

城主遠藤常友が城を修理するため

領内から多数の人夫を集めたとき、

その中の一人である

大和町の作兵衛(通称、赤髭)が

城下の河原から背負って

この地まで運び上げたものである。

(重さ約350キロ・

長さ約1メートル・厚さ30センチ)

奉行の村上貞右衛門が

その力量の優れているのをみて

激賞すると彼は感涙し、

たちまち力尽きてその場で

卒倒し息絶えてしまった。

奉行は憐れに思って

この石の使用を禁じたが、

昭和八年(1933)に

天守閣を建設する際に

この石が草の中に捨てられているのをみた

古川七兵衛氏が作兵衛の心根が

世に忘れられたのを嘆き、

この地に碑として安置して顕彰し

その礎石にことのあらましを

記したものである。」

最後の行に「七家老」と刻まれた石碑。

案内は無く、

これが何を意味するのかは、

定かではありませんが、

Wikipediaによると

「安祥譜代」という、

徳川最古参の家老七家のうちの一つが、

幕末まで郡上八幡城主だった

青山家だと書かれています。

ちなみに他の六家は、

酒井、大久保、本多、

阿部、石川、植村と

有名どころばかりですので、

そんな「誇り」みたいなものを

表した石碑かも知れません。

天守へ

山登りももうすぐ終点(笑)

撮影スポットの案内。

確かにいい場所です。

90年前に造られた櫓や土塀。

「郡上八幡城沿革」

案内を要約すると

以下になります。

「戦国時代末期の永禄二(1559)年、

郡上領主東常慶とうのつねよしと遠藤盛数との間で

郡上支配をめぐる

赤谷山城の戦いが起こった。

その際、盛数がここに陣を構えたのが

郡上八幡城の創始である。

その後、城は、稲葉氏、再び遠藤氏、

井上氏、金森氏と続き

金森氏が宝暦騒動(郡上一揆)で改易後、

江戸中期以降は、明治維新まで青山氏の

治世が続いた。」

徳川家康の横須賀城などと同じ、

臨時的な「陣城」が

そのまま恒久的な

本城となった例の一つですね。

「絶景スポット」

「魚のカタチの城下町?」

「手前が頭、奥の方が尾ヒレです!」

こうやって見ると、

確かにお魚と言えば魚です(笑)

最後の階段。

両脇にはつつじが植えられています。

城門。

天守に到着。

ですが、

先にお参りする場所が・・・

人柱「およし」を祀った奥の院。

先ほどの石碑ととともに、

大切に供養されている

「およし」さんなのです。

人柱「およし」についての案内。

隅櫓。

隅櫓から見た奥の院と城門と天守。

この後は、リニューアルなった

天守内部へと向かいます。

(続く)

 

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