いも代官ミュージアム(石見銀山)(2)

 

決めるのは自分

ネットで見た

いも代官ミュージアムの評価には

岩見銀山世界遺産センター

展示が被る・・・」

「展示の割に入館料が高額」など

どちらかと言えば

ネガティブなものが散見されました。

ただし、

どこに行くか、

どこに行かないかを決める時、

ネットの口コミ、

旅行サイトの評価などは

ほんの参考程度にして、

あくまでも「決めるのは自分」という

スタイルで旅している僕。

結果、「訪問する」という判断を下し、

これが大正解、

いも代官ミュージアムの独自性を

大いに楽しませて貰いました。

過去の人生、人の話を聞きすぎて、

山のような後悔(汗)をしてきた経験が、

ここで生かされたのかもですね(笑)

廊下

「いも代官」こと

井戸平左衛門さんに関する展示を見学後、

一旦廊下へ。

ここは戦後まもなく、学校として

使われていたそうですが、

納得の雰囲気です(笑)

そんな廊下の端っこ、

トイレの前に

こんなオブジェを発見しました。

「銀山の垣松」

案内には、

「第5代奉行杉田九郎兵衛門

(1638〜1641年)在職中、

銀山と村の境に、

木柵がわりに松を3000本、

距離にして5147mにわたり植えた。

そして、

これは垣松の枯れ残った

根元を掘出したものである。」

このように書かれています。

展示室

ここからまた展示室巡りへ。

家の模型などもありますが、

注目はこちら・・・

江戸時代の風景と

現代人がミックスされた

ほのぼのとした代官所界隈の情景です。

これを描かれたのは、

福島県会津若松市出身・在住の

イラストレーター「洵」さんだと

紹介されています。

そして、次なる部屋へ。

ここで必ず見ないと損するもの?

それが、こちらです。

日本最初かも知れないマスク(福面)と

ブラタモリの痕跡(笑)

案内をまとめると

以下になります。

「日本でのマスク使用は、

明治12年(1879)の広告から

明治初期にはじまるとされています。

しかし、石見銀山では

幕末に「福面」というマスクが

考案されていました。

江戸時代、坑道の中で働く労働者は、

粉石やさざえ灯から発生する油煙で、

現代でいう「塵肺」にかかり

多くは20〜30で働けなくなるという

問題を抱え、その問題を解決すべく

「福面」と呼ばれるマスクを考案したのは、

備中(岡山県)笠岡の医師

「宮太柱」(みやたちゅう)です。

福面は鉄でフレームを作り、

これに薄絹を縫い付けて、

表面には柿生汁(柿のしぶ)を塗って

作りました。

使用の際にはマスクの内側に

「梅肉」を挿れました。

これにより、マスクの表面に付着する

粉塵や油煙を梅の酸で

防止できたとされています。

宮太柱は「覆」の字を

縁起のよい「福」に変えて

「福面」と呼びました。」

宮太柱さん、

素晴らしい人ですが、

全国では全く知られていません。

この3年以上マスクだらけの日本、

せっかくだからこの機会に、

宮太柱さんの功績を広めたいものです。

銀山・坑道のジオラマ。

初代奉行、大久保長安が

銀山から大森に町を移転に着手、

2代目奉行竹村道清が陣屋を

銀山から大森に移転した後、

町は発展したと書かれています。

大森陣屋の平面図。

街の運営、陣屋町の賑わいについて。

これは!

そう、便所ですね。

しかも「大」の方(笑)

名前は「伝代官使用樋箱」。

解説には、

「樋箱とはポータブルの便器の事」と

書かれています。

ちなみに左は取手ではなく、

着物をめくって掛けるところ。

しゃがむ向きは右方向です(笑)

代官様が使用後、持ち運んだ人は

かなり大変だったでしょうね(笑)

(続く)

 

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