石見銀山世界遺産センター(1)

 

12時間

「12時間」というのは、

僕たちが二日間で

石見銀山に滞在した時間です。

正直、

これでも全く時間は足りず、

少なくとも、あと5時間は

欲しかったかな?(笑)

石見銀山は絶景とか、

立派な建築物やアトラクションとかが

あるわけではなく、

大森町とその周辺を

深掘り体験するほど

味が出る観光地ですから

興味がある人は、

じっくり廻る事がお勧めですね。

有料展示室

前日訪問した龍源寺間歩りゅうげんじまぶや、

行ったばかりの大久保間歩

そしてガイドさん達のお話で、

体験と知識も少しばかり

増えていたこともあって、

その後に見た有料展示は、

大いに楽しむことが出来、

今回はこの順番で良かったと

勝手に喜んでいます(笑)

おにぎり1個の昼食を終え、

再び石見銀山世界遺産センターへ。

左側が無料展示場で、

右奥が有料展示場への入り口です。

入場料は310円。

ただし、

僕たちはWAON(電子マネー)で

支払ったので260円。

石見銀山内の数カ所の施設では、

WAON割引がありますが、

どこにもチャージ機はないので、

カードを持ってる人は事前にチャージして、

石見銀山を目指すと良いでしょう。

入口のパネル。

左側には戦国時代の銀貨幣

御取納丁銀おとりおさめちょうぎん」を

5倍の大きさで造った

レプリカが飾られ、

自由に手で触れることが出来ます。

世界と石見銀山の関係などの

展示パネルを見ながら奥へ。

「石見銀山の発見」

案内を抜粋すると以下になります。

「守護大名の大内氏が博多の商人と結び、

中国との貿易を独占的に行なっていました。

その商人の中に神屋寿禎という人物がいて、

彼は中国での銀需要を知っていました。

当時、中国との貿易(日明貿易)では

銅が主要な輸出品でした。

寿禎はその銅を出雲大社の近くの

鷺銅山で購入するために

日本海を航行していたとき、

はるか南の山が輝くのを見つけました。

驚いた寿禎が船頭にたずねたところ、

「あれは銀峯山(仙ノ山)という名で、

かつて多くの銀が採れた」と聞きました。

寿禎は技術者を引き連れて、

1526年(1527年の説が有力)に

仙ノ山で銀鉱石の採掘を行いました。」

ガイドさんからも

このお話は聞いていましたが、

「山が光った」という逸話が、

何とも神がかり的というか、

常に目的を持って行動している人は、

一瞬のチャンスをものにするという

象徴的な出来事の比喩かも知れません。

一般的に言われている諺、

「チャンスの神様は前髪しかない」、

童話作家、久留島武彦氏の言葉では、

チャンスはハゲおやじ」を

実践したということでしょう。

Wikipediaによると

神屋寿禎さんは、

豊臣秀吉の頃に活躍した

神屋宗湛の曽祖父だそうです。

ここで世にも珍しい展示を発見!

「絵下駄」

以下、案内文です。

「下駄のかかとの部分です。

山と船が描かれており、

神屋寿禎の石見銀山発見の物語を

表したものと考えられます。」

下駄に絵が描かれているとは、

戦国末期の人たちにも

神屋寿禎さんの逸話が

広く知られていたという

証拠にもなりますね。

僕の心を鷲掴みにした下駄、

永遠に忘れません(まさか・・笑)

銀山発見の功労者、

寿禎さんへの敬意の印として、

これを展示の最初に配置した

学芸員の方、さすがです!

奥側から見た展示場の風景。

実在する「丁銀」。

江戸時代以前は、

重さを単位としていた事で、

切って使われていたので、

ほとんど残っていないと書かれています。

「日明・日朝貿易と日本銀」

「十六世紀前半、

石見銀山を支配した大内氏は、

博多商人と手を結んで銀を絹織物などと

交換していた」

「この頃の積出港は鞆ケ浦

このように案内されています。

大内氏、尼子氏、毛利氏の

石見銀山争奪戦のとお城などと、

毛利氏を通じての豊臣秀吉の支配から

徳川家康の支配までの説明。

ここで思い出したのが、

ガイドさんの言葉です。

「毛利氏は頭が良かったんですね〜

秀吉が石見銀山をよこせと言っても

ここは朝廷から預かっている

大切な土地なので、

それが出来ないんですよ〜・・

と話して断っているんです」

そんなお話でした。

秀吉は関白(太閤)の地位を

授けてもらったり

朝廷にはかなり気を遣う立場、

だから秀吉は直轄出来ず、

毛利氏経由で銀を納めさせたのでしょう。

それに対し、

徳川家康は幕府を開き

征夷大将軍という、

自由に振舞える立場、

毛利氏も山口に追いやったし、

好き勝手に出来たのも頷けますね。

徳川家康の元、

石見銀山の初代奉行として

大活躍した大久保長安について。

銀の積出港「温泉津ゆのつ」を

整備した毛利氏について。

莫大な銀は、戦に使うだけでなく、

朝廷にも贈っていたそうで、

さすが、大江広元の末裔だけあって、

朝廷とのパイプも強く、

外交も上手ですね。

銀山のくらし。

「大久保長安が大森の町の

建設を命じたとされ、

多くの出土品があった」

と書かれています。

「国絵図の変遷」

元和年間(1615〜1617)と

正保二年(1645)の絵図。

大きな違いは山吹城の表記が無くなり

御運上蔵が柵の外に描かれていることです。

銀山争奪戦もないので、

城は廃城されたという事でしょう。

「安原伝兵衛と清水寺せいすいじ

大久保長安の配下の山師として

釜屋間歩を発見し、

莫大な銀を徳川家康に贈り、

その褒美として、道服や扇子、

「備中」という名前を

与えたこと、

前日、僕たちもお参りした

安原伝兵衛のお墓が

清水寺にあることなどが

書かれています。

安原さんが家康さんから貰い、

それを清水寺に奉納した

国指定重要文化財、

「辻が花染丁字文道服」。

レプリカが飾ってありましたが、

そちらは撮影禁止なので、

案内板の写真を撮影しました。

「銀山のくらし」

以下、左の案内です。

「鉱山町、石銀いしがね

「仙ノ山、山頂部の東側

(標高470m)でおこなわれた

発掘調査の航空写真です。

間歩のほか道跡や

建物跡群などが見つかり、

鉱山で人々が暮らしていた様子が

確認されました。」

「建ち並ぶ家々」

家の近くには間歩(坑道)もあり

まさに職住接近という奴ですね!

かなりの山奥ですが、

茶の湯も嗜まれた痕跡もあります。

視察に来たお偉いさんを

もてなしたのかも知れません。

生活の場の痕跡。

「無紋銭」と言われる

石銀で見つかった銅銭。

(続く)

 

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