石見銀山世界遺産センター(2)

 

上杉謙信と石見銀山

テレビ番組「歴史探偵」で

上杉謙信を見ていたら

謙信が支配していた佐渡では、

金だけでなく銀の産出量も多く、

鉛を溶かして鉱石から銀を取り出す

灰吹法はいふきほう」は石見銀山から

日本海を経由して

佐渡に伝わったという

お話があっていました。

石見銀山で頻繁に目にし、

脳裏に焼きついていた「灰吹法」。

戦国最強とも言われた上杉謙信が、

この恩恵に預かっていたとは、

石見銀山こそ戦国最強でしょう(笑)

展示

ここでの展示はパネルだけでなく、

ジオラマや人形などを使った

多彩な見せ方をしていて、

僕たちを魅了してくれます。

「銀山柵内と大森の町」

ここでの注目は奥のジオラマです。

大久保間歩おおくぼまぶを擁する

江戸時代の本谷地区を再現。

「柵で囲われた鉱山」

「江戸時代初め、

鉱山は周囲8Kmを柵で囲われ、

銀山柵内と呼ばれていました。」

このように書かれています。

なんだか、

お城の周囲9Kmを囲んだ

総構えの小田原城を思い出します。

「銀山六谷」

「銀山の町は、「銀山六谷」と呼ばれ

本谷石銀、栃畑谷、昆布山、

休谷、大谷、下河原の6地区があり

万を超える人が集まる場所として

発展していた」

このように書かれています。

ジオラマの詳細説明。

釜屋間歩かまやまぶと岩盤加工遺構」

釜屋間歩は見学不可ですが、

写真で見ると、

かなり魅力的な遺構ですから

いつか行けるようになると良いですね。

発掘風景。

「仙ノ山から大森の町へ」

「1641(寛永十八)年、

柵は松の並木に変えられ、

仙ノ山の集落は衰退し、

代官所を中心とした大森の町が

発展した。」

このように書かれています。

きっと銀の産出量が激減して、

柵を設ける必要もなくなり、

また、

仙ノ山に居住する意味合いも

薄れたのでしょう。

「鉱山の形成と特徴」

「石見銀山の中心は標高537mの仙ノ山。

金銀銅の鉱床を育んだこの山は

およそ百五十万年前にできました」

このように書かれ、

続いて採掘方法が

図解されています。

簡単に表すと、

「最初は鉱石を見つけて採る、

次に鉱脈をちょっと掘って採る、

最終的に穴を掘りまくって目一杯取る」

こんな感じかな(笑)

「鉱床のできかた」

「吹屋」再現模型。

冒頭に書いた「灰吹法」で

銀を取り出す過程の再現模型です。

具体的でわかりやすいですね。

こちらは前日訪問した「吹屋跡」。

ここで再現模型と

同様の作業をしていたと

想像しながら改めて写真を見ると

一層リアルに感じられます。

銀を取り出す技術1。

灰吹法の解説。

「鉱山の技術」

再現人形の奥に灯された光、

間歩の中は、

その明るさだけだったという

ガイドさんのお話が蘇ります。

「絵巻に見る

採掘から精錬、丁銀の製造まで」

ここでは、江戸時代後期に描かれた

「大森銀山図解」という絵巻をもとに

銀山内を詳しく見せてくれます。

龍源寺間歩でも

「石見銀山絵巻」というものを電照板で

見ていますが、

こちらは「物」も展示してさらに

深掘りしています。

坑道の模型

絵巻始まり。

絵巻その2

絵巻その3

絵巻その4

絵巻その5

絵巻その6

ここでは、

石見銀山から山越で尾道へ、

そして、京都銀座を経由し、

江戸銀座へのルートが

表示されています。

「出土谷地区の製錬所」ジオラマ。

江戸の銀座。

江戸時代の貨幣価値など。

(続く)

 

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